マスクをつけた未亡人【蜜にご用心】 1
プロローグ 美人姉妹との再会
洋服が詰まった段ボール箱を持ち上げる。これで何個目だろう。レンタカーと実家を何度も往復しながら、古原良平は額に浮かび上がった汗をぬぐった。
感染予防のためにつけているマスクを今すぐ外してしまいたかった。慌ただしい引っ越し作業の最中、すぐそばの隣家を見上げる。
「由加里さんは、まだあの家に住んでるかなあ……」
懐かしい想い人の名前を呟くと、それだけで心が躍る。
「良平、なにぼーっとしてるんだよ。こっちはお前の引っ越しを手伝いに来てるんだぞ。さっさと作業してくれ」
友人の忠告で我に返り、再び段ボール箱に手を伸ばした。しばらく誰も住んでいなかった実家の廊下は、埃が白く舞っている。
「あれ、良平君?」
女性の声に振り返ると、マスクをつけた見目麗しい女性が二人立っていた。ドラマのワンシーンを切り取ったようにそこだけが華やかさに満ちている。
「こ、こんにちは……。……おっと!」
あまりの美しさに、うっかり段ボール箱を落としそうになる。慌てて荷物を下ろし、良平は脳をフル回転させた。
(こんなに美人の知り合いなんていたっけ? でも俺の名前を知っているってことは一度会っているはずだよな)
良平の名を呼んだ女性の表情はマスクに隠れていて、目元の美しさがかえって強調されている。瞳の輝きだけでその美貌が語られていた。これほどまでに綺麗な知り合いがいたら、絶対に忘れるはずがない。
「古原です。すみません、えっと……?」
困惑している良平の様子を察したのか、美女二人はふふふと笑う。
「富田です。ご無沙汰しています。私のこと、もう忘れちゃったかしら?」
「え? もしかして……由加里さんですか!」
良平が素っ頓狂な声をあげた。何事かと奥から顔を出した友人が、二人を見て驚きのあまりスマホを落下させる。
(まさか引っ越し当日に由加里さんと再会できるなんて!)
目をぱちぱちさせて目の前の女性を見つめるが、記憶の人物とすぐにリンクしない。ただその上品なソプラノの声は、確かに当時と変わりなかった。
「ごめんなさい、お久しぶりです。随分雰囲気が違って……。全然気付かなかったです」
艶々とした長髪を秋風になびかせた美麗な女性が、頷いて微笑んだ。
(すっかり元気になっている。あの時とは、別人みたいだ……)
数年前、海岸で座りこんだ小さな背中を思い出す。当時夫を失った直後の彼女の様子をよく知っていた。あの時の悲しい雰囲気は、微塵も残っていない。
「随分久しぶりだから無理もないわよね。良平君もすっかり立派になって。今日はお引っ越しかしら?」
ゆったりとした花柄のロングワンピースが揺れている。ふんわりとしたシフォンの生地が豊満な肉体曲線を描いていた。大きなバストが花の模様をグッと内部から押し上げている。
「はい、会社がリモートワークになりまして。一人暮らししていたアパートの家賃がもったいなくて、実家に戻ってきました」
「あら、そうなの。それじゃあまたお隣さん同士ね。嬉しいわ」
アーモンド形の目が優しく細まった。豊かな睫毛が柔らかい影を落とす。
(まだ隣に住んでたんだ! ああ、俺はなんて運がいいんだ)
明日から予定していた一人わびしい実家暮らしに、一筋の光が差しこむ。慈しむような微笑に引っ越し作業の疲れが吹き飛んでいく。
由加里に見惚れていると、隣の女性がコホンと空咳をした。なぜかこちらをじいっと睨んでいる。
(隣の人、怒ってる? それにしてもこちらの女性も綺麗だ……)
愛情たっぷりで癒し系の色気を纏う由加里を女優と評するのであれば、隣の女性はモデルのような洗練されたセクシーさを放っていた。
彼女は不躾にじっと見つめてくる。さすがにその目線を無視することができずに、良平はチラチラと隣の女性を見やった。
(由加里さんのお友達だろうか。すごく睨まれてるぞ……ちょっと怖いな)
これほどの美人であれば睨まれるのも悪くはないか、とおかしな感想を抱いてしまいそうだった。
「す、すみませんでした。お出かけ途中の二人の足を止めてしまって」
「……ねえ! 私のこと、わからないの?」
女性の視線の鋭さが増す。由加里がフフッと笑った。華のあるいたずらっ子のような視線には、覚えがあった。
「……えっと。もし違ってたらすみません。まさか、花奈か?」
「そうよ! 私たち、幼馴染でしょ。気付くのが遅いんじゃない?」
良平は慌てて謝罪を繰り返しながら、彼女のことを思い出していた。
由加里の妹の花奈は、良平と同じ二十五歳だ。子供の頃から一緒に育ってきたのに、一目見ても気付かなかったほど驚くべき成長を遂げていた。
(本当に花奈か? こんなに成長してるなんて。正直、別人みたいだ)
昔の彼女はどこもかしこもほっそりとしていて身長も低く、いつまでたっても幼い少女のようだった。しかし今良平の目の前に立つのは、モデルかと見間違うほどのプロポーションを誇る目映い女性であった。
「花奈……本当に大きくなったなぁ」
板のように平らだった胸は大きくツンと張りだしている。タイトなミニスカートは、ぷりんと膨れたヒップラインを強調していた。
「何その反応? 親戚のおじいちゃんみたいじゃない」
「ご、ごめん。つい……」
気の抜けた反応が面白かったのか、花奈はその険しい表情を崩した。マスクの奥で声を漏らして笑っている。パーマがかかったブラウンの髪の毛がふわりと揺れて、両耳に飾られたシンプルなピアスが小さく光った。
(そうそう、花奈はこんな風にコロコロと表情を変える元気な娘だった。思い出してきたぞ)
華やかなアイメイクを施した目元が印象的だ。薄いピンク色のアイシャドーがマスクの上で艶めいている。
「私たちも引っ越しを手伝えたらいいんだけど、今からお姉ちゃんと出かける予定なの。手伝ってあげられなくてごめんね」
大量に積み上げられた段ボール箱を見て、花奈が気を遣ってくれたようだ。先ほどまでツンとしていたのに、すぐに機嫌を直すところは相変わらずだ。
「手伝いなんていいよ、ありがとう。気をつけていってきてください」
隣家に住む彼女たちと過ごした日々が一気にフラッシュバックする。いつもこうやって声を掛け合い、助け合ってきた。時には一緒に食卓を囲み、彼女たちの両親が亡くなった後は共に悲しみに暮れた。第二の家族と言ってもよいほどの強い絆を感じる。
「引っ越しの邪魔をしちゃ、悪いわね。それじゃ、またね」
「また連絡するね。バイバイ」
そっくりの目元に同じ微笑みを浮かべた姉妹は、名残惜しそうに立ち去った。秋風に乗った二人の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
(昔から綺麗だと思ってたけど、今の方がもっといいな。二人ともすっごく美人で……引っ越しして、よかった)
明日からの新生活に胸が高鳴る。良平が隣家の姉妹との思い出を手繰り寄せていると、埃まみれになった友人がつついて来た。
「なぁ、今の人たち、誰なんだ? すごく美人だったけど」
姉妹はマスクをつけていたため、初対面の友人からは美醜の判断はできないはずだった。それでも彼女たちのオーラに感じるものがあったのだろう、友人はかなり興奮した様子だ。
「隣の家の姉妹だよ。妹が俺と同級生なんだ」
「あんなモデルみたいな人と? 羨ましすぎるだろ!」
気を狂わせそうなほど嫉妬する友人に、呆れた良平が声をかける。
「残念だったな、花奈は結婚してるよ。今はここに住んでないはず」
肩を落とす友人を引き連れて引っ越しの作業に戻る。青年の心を由加里との数秒の会話が満たしていた。小さい頃からずっと憧れ続けた存在だった。七年前に亡くなった夫の後を継いで、確か今は仕出し屋を経営していたはずだ。
就職と共に実家を離れた良平は数年越しの再会となったわけだが、未亡人の慈愛に満ちた眼差しと艶っぽい美貌は、変わらずに良平の心を照らしてくれた。
「明日からの新生活、楽しみだなあ」
淡い初恋の記憶を呼び戻した良平は、由加里への恋慕が自身の中に芽生えていくことにまだ気付いていなかった。
(次回更新は9月14日です)