役員秘書・涼子と美沙 1
第一章 【颯爽と社内を闊歩する】役員秘書が復讐の奸計に嵌まるとき
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先刻まで凍りついていた応接室内の空気が、やっと少しだけ溶けはじめたようだった。
新鋭商社シグマトレード社の役員応接室では、クレームをつけに単身乗りこんできた城北興産の社長に、シグマ社の専務以下四名の社員が対応する形になっていた。
吉岡とその上司だけで応接していた当初は、怒りを露わにしていた城北興産の社長も、少し遅れて秘書とともに部屋に入った専務が誠実に詫びることで、その表情を和らげつつあった。
「いや、なんとお詫びしてよいやら……前任者の高倉であればこんな失態は……高倉は別部署に異動して現在海外におりますが、この吉岡は早速御社の担当からはずしまして……もっと優秀な者を……」
城北興産社長の言葉に何度も頭をさげる上司の横で、吉岡は自らのミスが招いた事態であるにも関わらず、惚けたような視線を、専務の隣りに優雅に座っている秘書の相沢涼子の脚線美に注いでいた。
今年度入社したばかりの二十三歳。軽くウエーブのかかったセミロングの髪、ちょっと生意気さをたたえた感じの切れ長の眼、ノーブルに通った鼻すじ、少し薄めだがいかにも柔らかそうな唇、それらが集まって、涼子の人の目を引かずにはおかない華やいだ美貌を形作っている。
濃紺のタイトミニのスーツ。スカート丈は膝上十五センチしかない、一流企業の専務秘書にしては少し大胆とも思える短さだ。しかし、高い知性を感じさせる涼子が身に着けていると、それは決して下品には見えず、むしろ若々しい躍動感を感じさせるものであった。
「もう、このようなことは二度と……」
くどくどと詫びつづける上司の言葉に、涼子は美しい瞳で城北興産の社長を誠実に見つめながらうなずいてみせる。
ソファに深く腰かけ、上体をやや前傾させているため、タイトミニの裾はせりあがる形になり、しっとりと脂ののった若々しい太腿の四分の三ほどがまぶしく露出されるようになっている。
すらりとした、それでいて量感をたたえた太腿から柔らかな丸みを帯びた膝、張りつめたふくらはぎから、ヒールに支えられてきゅっと締まった足首へのセクシーなラインは、一個の芸術作品のようだ。
薄いベージュのストッキングが長い脚全体をぴったりと包みこみ、そのなまめかしさをさらに強調する形で輝かせていた。
「どうか、今回ばかりはご容赦をいただければと……」
上司の声すらも吉岡には耳に入らない。
男たちの話に柔らかく相槌を打ちながら、時折り脚を組み替える際に大胆に露出する涼子の太腿。その妖しい光芒に釘づけになっている。
吉岡は城北興産への商品の納入ロットを一桁少なく間違えるという致命的なミスを犯した。上司と同僚が懸命にリカバーしようと努めたものの、手配がついたのは納期を大きく過ぎた後であり、城北興産に大きな損害を与えてしまった。これが初めてなら、まだ相手に対して頭のさげようもあったのだが、吉岡の場合、今年に入って同様のミスは三度目だった。業を煮やした先方が、社長自らクレームをつけにシグマトレード社を訪れてきたのだ。
「まったく、こいつばかりはどうしようもありませんで……」
上司が先方には卑屈なまでに謝罪する一方で、吉岡に対しては腹立たしげな視線を送るのも無理はなかった。
一流大卒のエリートたちが集い、激しい社内競争を繰りひろげることによって急成長を遂げ、今では業界の一大勢力と目されるまでになった新鋭商社であるシグマトレード社のビジネス環境は、三流私大をぎりぎりの成績で卒業しコネを頼りに潜りこんだ吉岡には荷が重かった。
「上に立つ者として、改めてお詫び申しあげます」
シグマトレード社でも経営の中枢を担う営業担当専務が、再度、誠実に詫びてみせたことでやっと事態は鎮まった。
だが、実際のところ怒りがおさまった理由はそれだけではなかっただろう。
そこには、あでやかに微笑を浮かべた専務秘書の相沢涼子の存在があった。城北興産の社長ばかりか、吉岡の上司までもが時折り送る眩しそうな視線が、それを証拠立てている。現実に彼女が応接室に専務とともに入った瞬間から、とげとげしかった雰囲気が柔らかなものに一変したことを、誰もが感じていた。
秘書特有のきりりとした緊張感のなかにも柔らかく滲みでるフェロモンが、応接室内の男たちの張りつめた心を緩和させている。
専務秘書という職責上、普段は専務と行動をともにするか、奥の院である秘書室につめているため、吉岡のような一般社員はあまり涼子の姿を目にすることはできなかったが、若手社員にも熱をあげている連中は多かった。しかし、美女揃いのシグマトレード社でも一、二を争うルックスと、ネイティヴと変わらないレベルで流暢に英語を操る知性ゆえか、若手のエリート社員たちも高嶺の花と手をこまねいている状態だった。
もちろん吉岡も涼子に熱をあげている一人ではあったが、駄目社員の烙印を押され、アパートでパソコンをいじることだけが趣味の男にとって、涼子と言葉を交わすなどということは想像すら困難だった。毎日のように涼子の姿を思い浮かべては汚らしい自慰行為に耽ることが、せめてもの代償手段だった。
凡百のモデルやタレントなら裸足で逃げだすほどの美貌を持つ涼子の前では、城北興産の社長も感情を昂らせたままでいるわけにもいかず、とりあえず吉岡を担当からはずすことで交渉は決着し、いつの間にか和やかな雑談に移っていった。当然、吉岡の存在はその場からすっかり忘れ去られたものとなっていた。
(それにしても、ふるいつきたくなるような脚だ……)
要領の悪い吉岡はうまく席をはずすタイミングをつかめずに、相沢涼子の脚線美に魅入ったままだった。
自らがクレームと叱責の対象であり、本来ならば針のむしろともいえるこの場が、涼子のなまめかしい脚のラインを眺めることができたという、そのことだけで吉岡にとっては幸せな時間にさえ思えるほどだった。
「おいっ、どこを見ているんだ! お前のためにこんなことになったんじゃないか!」
上司の叱責に吉岡は我れにかえった。
「まったく、こんな奴でして……こんなのを担当につけてしまったのはひとえに私の責任です。申しわけありません」
先方に向かって詫びる声色には、専務と涼子へのかすかな媚びが感じられた。
「こいつが高倉の十分の一、いや百分の一でも働いてくれれば……吉岡よ、頼む。仕事をしろとは言わない。せめて他の邪魔だけはしないでくれ! なっ」
芝居がかってこちらを拝むふりをする上司の肩越しに、涼子がこらえきれずにくすりと笑うのを吉岡は見た。アーモンド型の美しい眼に哀れみとも軽蔑ともつかない色がかすかに滲んでいることが、吉岡の惨めさを倍化させた。
上司が引き合いに出した高倉という男は、吉岡の三年後輩にあたる。急伸するシグマトレード社内にあっても、若手のなかでは断トツの営業成績を誇るやり手社員である。
百八十センチあまりの長身と日焼けした顔からのぞく白い歯の笑顔が目立つ、いわゆるスポーツマンタイプの高倉は、二十代後半にしてすでに中堅のトップ社員以上の能力があると評価されるエリートだった。昨日から三カ月の予定で社の南米奥地でのプロジェクトの準備のために出張中だった。
「おいおい、高倉君と較べられちゃ彼も可哀相だよ」
そう言う専務の顔には、穏やかな苦笑が浮かんでいた。
仕事ができるばかりでなく、気さくで明るい性格で誰からも親しまれていた。甘くさわやかなマスクも味方して、女性社員にもよくもてる。そんな男と比較されたのだから、吉岡でなくてもクサってしまうだろう。実際、吉岡自身も何度か一緒に仕事をしたことがあり、機敏でスマートな仕事ぶりに舌を巻いた覚えがある。
(高倉、高倉って、なにかと言えばその名前だ)
内心ふてくされる吉岡だったが、顔に出すわけにはいかなかった。
今回の不手際についての話はそれで打ち切られ、城北興産の社長は先刻までの怒りの照れ隠しのように涼子の美しさを話題にした。
涼子のことに触れられるのは専務にとっても悪い気はしないらしい。相好を崩し、涼子に目をやった。
「いや、まあ相沢君は私の秘書などにはもったいないほど優秀な女性でしてね。とても一年足らずのキャリアとは思えない。最近では私の仕事は彼女のアシストなしでは進まない状態でしてね。おまけにこの美貌だ。彼女が秘書についてくれるなんて宝くじに当たったようなものだと思っております」
「まあ、専務、そんなことおっしゃってもスケジュールのほうは厳しく管理させていただきますからね」
わざと難しい顔で専務を睨むふりをする表情は、ずば抜けた美貌の涼子だけに吉岡にはたまらなくコケティッシュな魅力を感じさせるものだった。
「でも、こう見えても一本芯の通ったところがありましてね。あれは君の歓迎会の時だったか。どこかの酔っ払いがふざけて相沢君のヒップを軽く触っただけで、こちらがとめる間もなく平手打ちを一発……確かそうだったよな」
「あれは……あの方が酔ってらっしゃったので少し醒ませてあげようとしただけですわ。それに、あの時はまだ入社したばかりでお酒の席のこともよくわからなかったんです」
「ほう、今なら違うと……」
「もちろん、今なら……一発だけじゃすませませんわ」
いたずらっぽく笑ってみせる。
城北興産の社長は、今ではすっかりその表情を緩めていた。
「でも社長、秘書の分際で私ごときがこんなことを申しあげてもなんのたしにもならないでしょうが、今回の件、私からも重ねてお詫び申しあげます。本当にご迷惑をおかけいたしました」
立ちあがり、真顔に戻って深々と頭をさげる涼子に、上司はあわてた様子で言葉を挟んだ。
「あ、相沢さん。今回のことはあくまで吉岡と私の責任であって、君までが……」
「いえ、私もシグマトレード社の一員ですわ。ご迷惑をおかけしたお客様にお詫びするのは当然です」
凛とした表情で涼子が頭をさげたことが、会談の終止符となった。城北興産の社長は満足げな表情で応接室を後にした。吉岡が犯した失態を、専務秘書の相沢涼子はその美貌と誠実な態度で見事にカバーしてみせたのだった。
城北興産の社長と専務が連れだって食事に出るのを見送った後、吉岡は思いきって涼子に声をかけた。
「あ、あの、さっきはありがとう。なんだか助けてもらったみたいで……」
振り向く涼子の眼には、先ほど応接室で一瞬だけ見せた吉岡に対する軽侮の色が、今度はありありと浮かんでいた。
「いえ、私は専務を少しでもお助けしたかっただけです。別に吉村さんのためではありません」
「あ、吉岡です……」
名前すらまともに呼んでもらえなかったショックを隠して訂正しようとする吉岡だったが、涼子はそれを無視して冷たくつづけた。
「それと、今回の件で、今日の夕方からの専務のスケジュールはすっかり狂ってしまいました。二度とこんなことで専務に無駄な時間を取らせることのないようにお願いします」
応接室で見せた人当たりのよさからは一変して、服についた糸屑でも払うかのような事務的な態度でそれだけを言い残すと、涼子は吉岡に一言も発する余裕を与えずにくるりと踵をかえして立ち去っていった。
凛とした後ろ姿を呆然と見送りながら、吉岡は涼子にとって自分は、目の前にいても一片の注意を引くことすらない、道端の石ころでしかないことを痛感させられていた。
(次回更新は9月14日です)