プロローグ


 全てがつまらない。
 もう何もかも壊れてしまえば良い。そう思いながら俺は咥えたタバコに火をつけた。
 煙を肺に入れて、まだ慣れていないニコチンを身体中に染みわたらせる。見上げるとどんよりと曇っている。
 体育館の裏はどこかジメジメとしており、鬱屈とした空気は今の俺の心情を世に解き放ったかのようだ。
 煙をゆっくりと吐き出しながら、今頃勉学に勤しんでいるであろう同級生達の事を思う。
 あいつらは何が楽しくて学校に来ているのだろう。
 友達と会えるのが嬉しいのだろうか。
 没頭している部活で汗を流す事に青春を感じているのだろうか。
 そのどれもに俺は共感が出来ない。
 下らない。心の中の口癖だ。
 そういう俺はただ行き場が無いから、いろんな場所から弾き出されるようにここへ足を運んでいるだけだ。
 家に居ても働かない父親と母親の喧嘩が五月蠅いし、金も無ければ気を許せる仲間も居ないので街をぶらついても虚しいだけだ。
「つまんねぇな」
 そう呟くと、砂利を踏みしめる足音が近づいてくる。そしてそれは俺の目の前に到着した。
「授業をさぼってタバコ休憩とは良い御身分だね。大志君」
 俺は顔を上げるのも億劫だったが、その声に対しては何故だか顎を持ち上げる気になった。
「若者の特権だろ。美里ちゃん」
「飯塚先生と呼びなさい」
 濃紺のスーツに、腰までありそうな長い黒髪。スーツの上からでも、中背で細身の身体に胸が膨らんでいるのが見て取れる。数学担当であり俺の担任でもある若い教師だ。
「俺以外の生徒も皆そう呼んでる」
「そうなのよね。あたしって舐められやすいのかな」
 そう言いながら彼女は俺の隣に腰を下ろした。
 彼女の場合は舐められているというよりは純粋に親しまれていると言った方が良いだろう。
 顔立ちは整っているが、どこか猫を想起させるような愛嬌のある美貌だ。異性はもちろん同性からも愛されるのは容姿だけでなく、その竹を割ったような性格と飾らない言動のおかげだろう。
 俺が曇天だとすれば彼女は太陽だ。俺には少し眩しい。
「あたしは教師としてはまだ新人も良いところだけど、今時体育館裏でタバコを吸うなんて古典的な不良に出会えるなんて思ってなかったよ」
「別に不良なんて大したもんじゃないよ」
「そっか。じゃあタバコは没収ね」
 そう言うと彼女は俺の手からタバコを箱ごと取り上げた。そして興味深そうにそれを見つめる。
「こんなの吸って何が楽しいの?」
「やってみりゃわかるよ」
「ふぅん」
 何を思ったか彼女はまだ火がついているそれを口に咥えると、タバコをふかしてみせた。そして盛大にむせる。
「げほっ、げほっ……なにこれ煙たいだけじゃない」
 俺はその姿を見て、久方ぶりに頬が緩んだ。
「あ~、だめだめ。若者がこんなの吸って健康を害してちゃ」
 そう言うと地面に擦りつけてタバコの火を消す。
「大体今のタバコって嗜好品にしては高校生には少し値が張るんじゃないの? よくお金がもつね」
「カツアゲでもしてるって言いたいのか?」
「大志君はそういう事はしないタイプに見えるかな」
「どういうタイプに見えるんだ」
「他人に危害を加えるどころか、なるべく迷惑をかけないように心掛けてる一匹狼って感じ」
 その評価は俺の心に巣食う氷を少しだけ暖めてくれた。両親ですら俺を気に掛けていないのに、ちゃんと俺の事を見てくれている人が居る。それだけでむず痒く感じる。
「……タバコは親父のを拝借してんだよ」
「ああなるほどね」
「なぁ美里ちゃん」
「飯塚先生ね」
「俺って停学になる?」
「ならないよ」
「なんで?」
「あたしと大志君二人の秘密になるから」
「……別に庇わなくて良いのに」
「だって、君って停学になったらそのまま学校来なくなりそうだし」
「来る意味あんのかな。こんなところ」
「どうだろうね」
「教師が言い淀むなよ」
 二人肩を並べて曇り空を見上げる。
「強いて言うなら未来の選択肢を作る場所、かなぁ」
「俺にはそれがよくわからない」
 未来。選択肢。どちらもピンと来ない言葉だ。
「将来やってみたい事とかないの?」
「無い」
「進路希望も白紙だもんね。子どもの頃の夢とかも無かったの?」
「忘れた」
「あたしはケーキ屋さんだったなぁ」
 あまりに他愛も無ければ中身も無い会話。しかし不思議と彼女と話していると退屈が紛れた。
 社会の大人全てに俺は失望している。働かない父親にヒステリックに叫ぶしか能の無い母親。テレビに映る政治家。今まで出会った教師だって結局自分の事しか考えていない。
 しかし彼女を前にすると肩の力が抜けている。するすると自分の中で鬱屈していた言葉が漏れ出た。
「……学校も好きじゃないけど、家に帰りたくないんだよな」
「どうして?」
「両親が嫌いだ」
「家族でも嫌いな人は居るよね」
 俺のその発言を、ただの幼い反抗期の一つとして処理しなかった。それだけで俺は救われた気がした。
 彼女が何故生徒から慕われているかわかった気がする。端正な目鼻立ちを気取らないなんて表面的な性格だけではない。対等な目線で生徒を見てくれている。
 そしてそこには飄々とした性格の裏に隠された、鉄のような信念が筋を通っているのを感じるのだ。
 きっとそれは教師としての矜持というやつだろう。
 それからも俺は学校に通い続けた。
 どうしても教室の空気に耐えきれなくなると体育館裏に避難する。そうするとどこから嗅ぎつけたのか、飯塚美里は現れて俺と雑談を交わした。
 彼女は俺を叱責しない。ただ俺の話を聞いてくれた。いつしか俺は家庭事情の愚痴まで零すようになっていく。
「そっか……あたしは平凡な家庭だったけど、幸せだったんだなぁ」
 彼女は同情するでもなく、自分の不見識を恥じるように言った。
「別に飯塚先生が悪いわけじゃないけど」
「あ、美里ちゃんじゃなくて先生って言ってくれた」
「……別に。一々五月蠅いからな」
 そう誤魔化しながらも、俺は彼女を教師として敬うようになっていたのだ。こんなに心を許した他人は初めてだった。
 やがて雑談の比率は俺の愚痴ではなく、俺の方から彼女へ質問する事が多くなっていく。
「なんで教師になろうと思ったんだ?」
「あたしも高校生の時に進路で迷ってて、その時お世話になった先生が居たんだ。すごく感謝すると同時に尊敬してさ、あたしも悩める若者を導きたいなって思ったんだ」
「えらく大層な願いだな」
 俺は思わず鼻で笑ってしまう。
「あ、笑った。本気なのに」
 彼女は不満そうに唇を尖らせた。
「悪い悪い」
 そう軽い調子で謝ったものの、俺の胸にはわだかまりが残る。なので俺は謝り直した。
「……本当に悪かったよ」
「どうしたの改まって」
「俺みたいな何も持ってない人間が他人の志を笑うのはダサいなって。そう思ったから」
 すると彼女は俺の背中を軽く叩いた。
「大志なんて良い名前つけてもらってんじゃん」
「名前負けしてるよ」
 その頃には両親や社会に対する苛つきは殆ど消えていて、ただ自分の道が決まらない事に焦燥感を覚えていた。
 いや、本当はもう心の中で目指したいものはもう芽生えていたのだ。しかしそれを口にするのは憚れた。俺なんかが夢を抱いてもいいものか。そんな劣等感が振り払えないでいる。
 そんな折りだった、彼女は体育館裏に白紙の進路調査を持ってきてこう口にする。
「ねぇ。もう一回一緒に考えようか」
 俺は覚悟を決める。
「なぁ。笑うなよ」
「笑わないわよ」
「……俺も飯塚先生みたいな教師になれるか?」
 無理だよ、と否定されるのが怖かった。社会から後ろ指を指されて嘲笑されるんじゃないかと怖かった。しかし彼女は真面目な顔で俺を見て、そして両手で俺の手を包み込むように握る。
「なれるよ。きっとなれる」
 彼女の小さな手。細い指。すべすべした手の平。そして温もりに俺は思わず赤面して顔を逸らす。
「なんでそんな断言できるんだよ」
「大志君は自分が辛いのに、それを理由に周囲を威圧しない。そんな懐の深さと優しさを持ってる。きっと生徒に寄り添える最高の教師になれるよ」
「……べ、別にそこまで大それた事は考えてねえけど」
 飯塚先生はその麗しい顔に照れ笑いを浮かべた。
「何言ってんの。志は大きく、でしょ」
 でも俺の話を真摯に粘り強く聞いてくれた人は先生だけだ。その言葉は恥ずかしくて喉元で詰まった。
 それからというもの、俺は憑き物が落ちたかのように勉学に励んだ。両親の諍いは続いたが、その雑音もあまり気にならなくなった。
 授業をサボる事は無くなったが、放課後学校に残って勉強していて疲れると体育館裏に休みに行く事はあった。もちろんタバコはもう止めていた。そこでたまに飯塚先生と顔を合わす。それが何よりの気晴らしだった。
 彼女とは相変わらず他愛の無い会話を交わす。
「最近大志君、女子に人気あるらしいよ」
「冗談だろ」
「本当だって。事情通の子から聞いたもん。クールでニヒルなところが良いんだってさ」
 飯塚先生は俺をからかうように肘で突いてきた。
「……今は恋愛にかまけてる余裕無いよ。遅れてた勉強を少しでも取り戻したいし」
「学校は青春を楽しむ場でもあるよ。それに大志君の頑張りを見ると恋人が出来たくらいで集中を阻害されるとは思えないし」
「教師が不純異性交遊を薦めるなよ」
「不純じゃなかったら良いじゃない。プラトニックな恋愛に努めなさい。そういう経験も大事な事よ」
 俺の喫煙を黙っていてくれた時もそうだが、飯塚先生は教師として強い使命感を持ってルールを重んじてはいるが、同時に柔軟な対応であくまで生徒の未来を最重要視している。
「そういう先生は彼氏居るのかよ」
「居るよ」
「へぇ」
 何気なく聞いた一言だったが、少なからずショックを受けている自分が居た。飯塚先生に恋愛感情のようなものを微かに抱いていたのかもしれない。
「ここだけの話なんだけどね、来年結婚するんだ」
「そりゃあめでたいな」
 しかしやはり彼女は俺にとっては、恋慕する女性である前に感謝している教師だった。だから祝福の想いがすんなりと口から出る。
 そして俺は猛勉強の末に教育学部のある国立大学を合格した。親には学費なんて出してもらえずに奨学金制度を頼るしかなかったが、最初から親の援助や応援なんて期待していなかった。俺が進学する旨を伝えた日も、合格が決まった日も彼らは俺に無関心だった。
 しかし俺の胸には以前のような風穴は空いていない。そこには確かに、俺を信じてくれた飯塚先生の温もりが埋まっている。
 卒業式の日、彼女は目に涙を浮かべて俺を見送ってくれた。
「泣くなよ」
「立派になったなって思って」
 もう二度と会えないかもしれない。しかし寂しさは無かった。俺が教師になれば、同じ志を持つ者として同じ道を歩むのだ。
 俺は別れ際に彼女に頭を下げた。
「未来と選択肢を与えてくれてありがとうございました」

 そして数年後、俺は教育実習生として、この母校に戻ってくる事となる。

 

【次回更新:2025年1月3日(金)】

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