第一章 麗母転落 清楚妻と二匹の悪魔

 

「ふう……」
 一通りの家事を終えた紫帆は、よく冷えた麦茶を飲んで息を吐く。家族三人分の洗濯物を取りこんだだけで、首筋にはびっしょりと汗が浮いていた。
(薄着だけれど……まあ部屋の中だし、別に構わないわよね)
 しばしの逡巡を挟み、人妻は羽織っていた薄手のサマーカーディガンを脱ぐ。ベージュ色のキャミソールはたっぷりと汗を吸い、強烈な肉感の豊乳へ張りついていた。四十歳を超えた女――それも二児の母としては少々はしたない格好ではあるが、剥きだしになった二の腕を冷房の風が撫でるのが心地よかった。
 紫帆が休息に浸っていると、スマホが鳥の囀りに似た音を鳴らす。夫からのメールだ。『無事、出張先に到着!』と書かれた件名を見るだけで口元が綻ぶ。紫帆は所々に絵文字の挟まれた文面に視線を這わせた。
『折角の夏休みなのに家族で思い出作れなくてごめんね。琴夏ちゃんにも謝っておいてください。それと紘太のこと、色々大変だろうけどよろしくね。それじゃ、一ヶ月稼ぎまくってきまーす!』
 そんな文章の締め括りと一緒に、翼の生えた札束の絵文字が添えられている。これは稼ぐ絵ではなく、お金がどこかへ飛んでいく絵ではないのだろうか。
「全くもう、おっちょこちょいなんだから。ま、卓斗さんらしいけどね」
 お調子者で、だけど誠実で優しくて、常に歩調を合わせて寄り添ってくれる人――半年前に結婚した夫の顔を思いだすと、胸の辺りがポカポカと温かくなった。
「……大丈夫よ、卓斗さん。私たち、きっとうまくいくから」
 自分へ言い聞かせるように呟き、水滴の汗を掻いたグラスを両手でそっと握る。
 今の夫とは再婚だった。互いにバツイチである。紫帆は大学生の娘である琴夏を、卓斗は高校生の息子である紘太を連れて、新たな夫婦の契りを交わした。
 年頃の子供を連れ添っての結婚だ。流石に万事がうまくいっているとは言えないが――少しずつ、しっくりくる家族の形になってきている。……と、思いたい。
(ちゃんと紘太くんの母親をやれているのかしら――って、うじうじ考えても仕方ないわよね。私にできることは、目一杯の愛情を注ぐこと。それだけよ)
 今夜は紘太の好きなハンバーグにしよう。どうせなら鳥の照り焼きやウィンナーもつけてミックスグリルにしてみようかしら――そんなことを考えていると、家の鍵が開く音がした。
「おかえりなさい、紘太くん」
 扉から姿を見せた紘太に微笑みかける。中性的な顔立ちの少年は顔を青くして俯いていた。汗に濡れた黒髪が毛束の暖簾を作り、陰鬱な表情の上で揺れる。
「……紘太くん? どうかしたの? お友達と喧嘩でもした?」
「う……ううん。別に……な、何もないよ。ちょっとお腹が痛いから……へ、部屋に行くね。あの……今日の晩御飯はいらないから……」
「そんな……まだ夕食まで時間はあるわ。お腹が治るかもしれないし……」
「本当に……大丈夫だから。その、適当に済ませるから。ごめんなさい」
 義理の息子は口早に言うと、男子高校生にしては線の細い身体を丸めて部屋に行く。扉が閉まると、少年から漂っていた不穏な空気と、どこか青臭い汗の匂いだけが居間に残った。
(一体どうしたのかしら……お腹が痛いという感じではなさそうだけど……)
「……ねえ紘太くん? 何かあったの? 私に何かできることある?」
 少し迷った後、紘太の部屋の前で声を掛けてみる。返事はない。扉に鍵はないが、無理矢理入るような性格はしていない。紫帆はもう一度ノックしようとした手を止め、扉にそっと手を当てて言う。
「……お夕飯はハンバーグにしようと思っているの。調子が良くなりそうだったら言ってね?」
 それ以上、どういう言葉を掛ければ良いのか見当もつかなかった。これでも娘を育ててきたのに、なんて情けないのだろう。とは言え相手は義理の息子だ。実の子供として扱いたいが、どうしても遠慮が出てしまう。
(……だめね。母親失格だわ……)
 ピンポーンとチャイムの鳴る音が家に響く。恥ずかしい話だが、来客に胸を撫で下ろす自分がいた。「何かあったら言ってね」と返事のない部屋に声を掛け、紫帆は玄関扉を開けた。瞬間、夏の熱波と一緒に安っぽい香水の匂いが鼻を衝く。
「へへ……どうも、奥さん。こんな昼間からすみませんね」
「あんたが神原紫帆さんだな。想像以上の美人じゃないか」
「えっと……あ、あの……どなた、ですか……?」
 学生服を着た二人の若者を前に紫帆は狼狽する。丁寧な口調の男は肥えており、もう片方の男はラグビー選手のように大柄だ。巨大な二人に息を呑む。
「あっ……もしかして、紘太くんのお友達かしら? ごめんなさいね。あの子、今体調を崩していて。悪いけれど今日は――」
「ああいや、違いますよ。俺たちは確かに紘太くんの友達ですけど、遊びに来たわけじゃないんです。まあある意味で、遊びに来たみたいなもんですけどね」
 男たちは双眸を弧状に細め、ぎらついた視線を肌に這わせてくる。妖しい気配を察知して紗羽は身を強張らせる。そういえば上着を脱いだままだ。無防備に晒された二の腕をきゅっと掴む。
(なんだか嫌な感じだわ……本当にあの子の友達なの……?)
 本当の友人であれば悪いが、早く帰ってもらおう。彼らが帰宅するための理由を頭の中で探す紫帆に、太った少年は口角を吊りあげて言葉を足す。
「ああ、もしかして追いだそうとしてます? でもそれは無理ですよ。もう端的に言いますけどね、おたくの息子さん、俺の親が経営してる店で万引きしました。しかもアダルトビデオです。監視カメラに全部映ってましたよ」
「え……え? な、何を言って……るんですか。紘太くんがそんなこと……」
「証拠ならあるんだ。言い逃れは無理だぞ」
 本当に彼らは学生なのだろうか。まるで映画やドラマに出てくる借金取りのような口調が現実味を薄れさせる。真夏の暑さが理由か、告げられた内容が原因か、酷く頭がくらくらした。
「まあ立ち話もなんですし、中でどうですか。我々の今後について話し合いましょうよ」
 セミの鳴き声と一緒に何かが崩れる音が遠くで聞こえたような気がした。それが日常の崩壊する音だと気づくのは、まだ先のことである。

(第2回 4月10日配信予定)