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古風でいやらしい三人の未亡人 1

第一章 筆おろしは三つ指そろえて

    「私が、大人にしてさしあげますわ」

 

 

1 二十歳の夜

 

「康隆さん、お帰りなさいませ」

 玄関のドアを開けると三つ指をそろえて帰りを出迎えてくれる美熟女の姿。

 つやつやとした黒髪をひとつにまとめ、仕立てのいい和服が色白の美肌によく似合っていた。

 青柳康隆にとっては日常の光景ではあるものの、いまだに居心地が悪い。

(こんなに綺麗な女性が、僕のために、頭をさげてくれるなんて)

「今日は本当におつかれさまでしたね」

「み、実和子さん。いつも玄関で丁寧に挨拶をしてくれて……申し訳ありません」

「そんな……家元の康隆さんに粗相があっちゃいけませんもの」

 涼しげな目元に柔和な笑みを浮かべ、口元をほころばせる三十八歳の義母の姿に、康隆の心臓はコトンと音を立てる。

(実和子さん、いつも和服がよく似合っているけど、どうしてだろう、今日は特に綺麗だよ。ドキドキしてしまう)

 実和子が康隆の戸籍上の母になってから、六年という月日が流れようとしていた。

 江戸は元禄からつづく日本舞踊の流派、竜聖流の家元である父に、実和子は三十二歳のときに嫁いだ。実和子自体は華道を営む家に生まれ、舞踊には明るくなかったものの、縁があって結ばれたのだと聞いている。

 初めて会ったとき、背筋にビクンと衝撃が走ったのをおぼえている。

 とにかく美しかったのだ。

 幼いころに亡くした実母の記憶はほとんどない。だが、実和子の顔をひとめ見て、運命を感じたものだった。

 義母との生活が、康隆の脳裏につぎつぎと浮かびあがってくる。

 思春期の康隆にとって、義母が風呂あがりに漂わせる石けんの匂いと薄い体臭は劇薬だった。艶めかしい濡れ髪から立ちのぼるフェロモンは、女性というものの存在が身近ではない康隆にとって、悩ましすぎるものだった。

 また、夏ともなれば、実和子が少し薄手のサマーニットを身にまとっただけでも、どうしても意識してしまう。服越しにもありありとわかる豊かな乳房と、透き通るような白い肌がいつもより多く露出されるだけで理性を保つのがやっとだった。

 ひとつ屋根の下、床にあるチリ屑を拾うようなささやかな義母の動作ですら、横目でうかがっていたほどだ。脚をそろえ、腰をおろすようにしゃがんだとき、大人の女性の魅力を痛烈に感じる豊かな美臀が強調され、康隆は溜め息をもらしていた。

 凜とした雰囲気を常に崩すことなく、上品さを漂わせる優雅な挙措。

 いまになって思えば、義母と同居してからの六年間、ずっと康隆は義母に片思いをしていたのかもしれない。

「お父さまも、きっとおよろこびでしょうね、ふふふ」

 衣装部屋へ向かう康隆の、三歩後ろをついていきながら義母は語りかける。

 障子戸を引き、衣紋掛けのところまで来た。

 康隆が身にまとっていた洋装の喪服を脱ごうとすると、すかさず康隆のスーツの肩口に手をかけ、手伝ってくる実和子。

「親父も悪い気はしなかったんじゃないかな、墓の下だけどね……二十歳になったよ、って報告をしてきたよ」

 康隆の父が亡くなってから、今日で五年が経つ。

 心臓を患ってはいたが、これほどまでに早く親を失ってしまうとは考えていなかった。

(実和子さんがいなかったら、僕は天涯孤独の身になってたんだよな)

 亡くなる一年前に父が後妻を娶っていなかったらと思うと、康隆は身の縮む思いがする。

 多感な時期に同居をはじめたため、康隆はいまだに実和子を「義母さん」と呼ぶことができない。

 だが、「その呼び方でもいいですよ」と義母が認めてくれているため、康隆はその厚意に甘えているような状態だ。

「あの、実和子さん……」

 上半身はスーツ用の薄下着のみになった康隆が、もじもじしながらつぶやく。

「僕、着替えをしたいんですが……」

「ふふっ、そこまでお手伝いしなくていいですか? まだまだ甘えてくださっていいんですよ」

 実和子が「あらあら」とつぶやきながら、そそくさと居間に移動する。

「康隆さんの着替えくらい、いいじゃないですか……私は、着替えしているところ、見られてもいいですよ。親子ですもの、うふふ」

 ふすまを隔てて放たれた言葉に、ピクッと肩をこわばらせた。

(そんなことっ、できるわけないじゃないかっ)

 康隆は、絶対に実和子に言えない秘密を持っていた。

 現在、康隆が自分で自分を慰めるときに、義母の実和子が登場していた。

 実和子が着替えをしているところを想像してのオナニーももちろんある。

 想像のなかの実和子は喪服を身にまとっている。

 唇にツンと人差し指を当てて康隆を悩ましげな瞳で見つめ、のぞけているうなじからは康隆を狂わせる芳香が漂う。奥衿からのぞく肌は雪白で、康隆が実和子の肢体を抱きしめると、恥じらいで赤く染まる。

 帯をほどくと、それに押しこめられていた乳房が弾む。白襦袢を脱がせ、和装用の下着を脱がせると、そこには夢にまで見たおっぱいが……。

(ああっ、そんなこと考えちゃだめだ……)

 半勃起状態になった陰茎を見て、康隆は自己嫌悪に陥る。

 義母が外出しているとき、実和子の下着をおかずにしたことも一回ではない。いかにも熟女然とした、ベージュやオフホワイトといった手触りのよいシルクの下着を使ったこともあった。

(もしかして、下着を使ってオナニーしたこと、バレているのか?)

「か、からかわないでくださいっ……もう僕は二十歳なんですからっ」

「あらあら……でも康隆さんは、まだ十九歳なんじゃないかしら?」

 ふすまの向こうで妄想をひろげていることなど知るよしもなく、実和子の鈴を転がすような声が聞こえた。

「あ、あと数時間で日付が変わるんだから、もう誕生日みたいなものですよ。いつまでも、子供扱いしないでくださいっ」

 父の命日、その次の日は、奇しくも康隆の誕生日だった。父が亡くなった五年前は、複雑な思いが去来した誕生日だったことをいまでも康隆はおぼえている。

「康隆さんも、もう、大人なんですね」

「み、実和子さんっ、からかうのもいい加減にしてくださいっ」

「まあ、ごめんなさいね。夕ご飯の準備、できていますよ」

 足袋のすり足と和服が衣擦れする音が、康隆の耳から遠ざかっていく。

 康隆はひとり、ほうっと息をついた。

(実和子さん……あの夜のこと、おぼえているのかな)

 康隆は遠い過去に想いを馳せていた。

 

 

(康隆さんも、ついに二十歳……大人になったのね)

 九十二センチの胸乳の奥に潜む心臓が、コトンと鳴った。

 いつも通り、ふたりきりの食卓。

 テーブルには、里芋の揚げ出し、切り落とし肉を使った牛すき煮、出汁を丹念にとったみょうがの味噌汁……実和子が腕によりをかけた、テーブルに乗り切らないほどたくさんの和の総菜が並んでいる。

「いただきます」

 目をつむり、手を顔の前にしっかりと合わせ、「いただきます」とつぶやく康隆。

(ほんと、初めて会ったころと変わらないわね……)

 実和子は六年前、この家に嫁いできたときのことを微笑ましく思いだす。

 思春期真っ盛りの康隆は、部外者である実和子をうとましく思っていたのか、どこかよそよそしく感じられた。

 ふたりの心の距離が急速に近づいたのは、皮肉にも、康隆の父が逝去してからだ。

 大人びた性格だと思っていた康隆だったが、父の葬儀では、子供のように泣きじゃくっていた。

 そのとき初めて、実和子は理解した。

 康隆が過ごしてきたのは、子供のころから竜聖派の跡継ぎとして期待され、実父に舞踊を仕込まれる日々だった。

 いわゆる普通の親子関係は皆無で、「師匠」としての父の存在しか知らない。さらには実母を早くに亡くし、母性にも飢えていた康隆は、まわりの大人のなかで、一生懸命、虚勢を張っていただけなのだと。

 

 葬儀の夜のことだ。

 夫を亡くした悲しみを振り払うように、あわただしく動いていた実和子は、夜遅くになってようやく、夫が眠る祭壇に、落ち着いて手を合わせることができた。

(あなた、やっとふたりきりになれましたね……)

 夫の遺影に語りかけながら、目尻に涙を溜めていく。

 そのとき、自分以外に人がいることに初めて気づいた。

「や、康隆さん……」

 泣き腫らしていたのだろう、康隆の目は充血して真っ赤だ。

 実和子は義理の息子をそっと抱きしめてささやいた。

「康隆さん、大丈夫よ、私は、ずっとずっとあなたのそばにいますから」

 抱きしめられて驚いたような様子を見せる康隆に、実和子はなおも言葉をかけてやる。

「康隆さん、私にもっと甘えてください」

「でも、僕、早く大人にならなきゃ……」

「大丈夫、大人になんてならなくていいわ。大人って、二十歳のことよ? あなたはまだ十五歳の子供……だから、大人になるまでは……ね?」

「で、でも……」

 康隆は抱き合いながら、ちょうど自分と同じくらいのところにある実和子の顔を見つめた。

「私と同じくらいの身長なのね……でもまだあなたは子供よ」

 実和子は背伸びをして、康隆のおでこにキスをした。

 突然の口づけに、康隆の瞳に驚きの色が浮かんだ。

「待ってて……あなたはまだ子供なんだから」

「み、実和子さん……」

 康隆が、義母を抱きしめる手の力が強くなった。

 

 

 いまになって思うと、なぜそんなことをしたのか実和子はわからない。

 嫁いで一年、早くに夫を亡くしてしまい悲嘆に暮れ、誰かにすがりたかったのかもしれない。

 実の両親を亡くした少年へ憐憫の情が湧いたから……。

 亡き夫に似た端整な顔立ちに惹かれてしまったから……。

 後付けで様々な理由をつくったものの、どれが正解かは自分にもわからない。

 ただ、あの抱擁と口づけがなかったら、実和子自身の心も保たなかったことは間違いないだろう。

(でも、あの夜のこと、康隆さん、もう忘れているかもしれないし)

「実和子さん、この揚げ出し、すごくおいしいよ……ど、どうしたの、すごく顔が真剣だよ。親父のことでも思いだしているの」

「や、康隆さんっ」

 自分で予想していたよりも大きな声が出て、実和子は少し戸惑った。

「康隆さんは、彼女、とかいるの?」

「んぐっ! 突然、そんな……どうかしたんですか……」

 なにか言いかえそうとする康隆だが、実和子のただごとではない表情を見て、態度をあらためたようだ。

 箸を置いて、実和子の顔を見つめる康隆。

「い、いないですよ……というか、彼女がいたことが、ありません」

「それは、ど、どうしてなのかしら?」

「り、理由、ですか……そ、それは……」

 康隆に思い切って言葉をぶつける。

「ご、五年前の夜のこと、おぼえている?」

 康隆の顔色が変わった。

(おぼえているんだわ……)

 様々な感情が胸からこみあげ、目尻に涙が押し寄せてくる。

「あのとき、抱きしめられて、僕、すごくうれしかったんだよ。もしかして、これがお母さんの愛情なのかって」

 手の甲であふれでる涙を押さえながら、立ちあがり、康隆をきつく抱きしめる。

 あの夜とは違って、康隆は実和子より頭ひとつ大きくなっていた。

(康隆さんが彼女をつくらない理由……私、わかっていますのよ)

 違和感に気がついたのは、康隆が高校生になったくらいのころだ。

 自分の衣装ダンスに収納している下着の位置が微妙に変わっていることが多くなっていたのだ。

 実和子はすぐさま、康隆のしわざではないかと考えた。

 疑念が確信に変わったのは、罠を仕掛けたからだ。

 慎み深い実和子は、使用済みの下着を康隆の目に触れるところには決して置かない。だが一度だけ、洗濯籠のなかに不用意に放り込んだことがあった。

 次の日、下着の位置が微妙にずれていたこと。

 あのときの康隆の挙動不審ぶりは、いまになっても笑いがこみあげてくる。

(私のこと、いやらしい目で、見ていらっしゃるんでしょ)

 でも、もとはといえば、あの夜、自分が火をつけてしまったことが原因だ。

(私が、康隆さんを導いてやらなければ……)

 実和子は背伸びして、康隆の耳元に唇を近づける。

「十二時──日付が変わりましたら、浴室で……待っています」

 ささやくと、康隆が息を呑む様子がわかった。

 康隆の目が大きく見開かれるのに気づいたが、身体を離し、素知らぬふりをして顔をそむけ、台所へと歩を進めていった。

 大胆なセリフをつぶやいてしまった自分の首筋が、急速に熱を持ち羞恥に染まりきっているのに気づかれたくなかった。

 

 

(次回更新は8月17日です)