本販売日:2026/04/23
電子版配信日:2026/05/01
本定価:1,188円(税込)
電子版定価:1,188円(税込)
ISBN:978-4-8296-4872-8
名家に嫁ぎ、誰もが羨む幸福を享受していた人妻・和歌子。
初めて知る嗜虐の責めが、28歳を良妻の檻から解き放つ。
自ら黒革の首輪を受け入れ、従順な性奴へと開花。
毒蛇の牙は、一族の絶対権力者である義姉・景子へ!
傲岸不遜な美貌は、衆人環視の中で絶頂を繰り返す肉塊へ。
巨匠・夢野乱月の到達点。被虐小説の真髄がここにある!
第一章 人妻・和歌子
1 危険な男
2 隷従のポーズ
3 官能の残滓
第二章 調教師K
1 正妻と愛人
2 麗しき女性弁護士
3 鏡の前で
4 監視者
5 黒革の首輪
6 毒蛇狩り
7 調教ルーム
8 背徳の契り
9 拉致
第三章 氷の女王・景子
1 再教育
2 鞭と男根
第四章 華の環
1 性奴デビュー
2 漆黒の毛叢
3 蝋燭責め
4 断髪式
5 絶頂と失禁
6 肛虐ショー
7 獣堕ち
本編の一部を立読み
第一章 人妻・和歌子
1 危険な男
まるで自分を主人公にした回想動画を観ているようだと和歌子は思った。
幽体離脱、パラレルワールド──正確な意味を理解しているわけではなかったが、小説や映画で覚えたそんな言葉が脳裏をかすめた。
新宿副都心。ビル街の谷間に埋もれるように建つ、ピンクの外観が可愛い小さな店。アボカドと帆立のタルタルとフォアグラのソテーがとても美味しい、フランス語で「近くの店」という名前のついたビストロだ。
夜の九時前、優雅な食事を楽しんだ男と女のカップルが店を出てきた。口ひげを蓄え、グレイのビジネススーツを隙なく着た見るからに自信にあふれた中年男とアプリコットのスーツを着たコケティッシュな顔だちの若い女だ。
ふたりは言葉を交わしながら寄り添うようにして都庁通りを渡り、中央公園に沿った通りの舗道を歩いていった。
和歌子は道路をはさんだ反対側の舗道をふたりの後ろ姿を遠目に見ながら尾けていった。
枝ぶりのよい大きな街路樹の下で男が女の身体を引き寄せると、口づけをした。女の身体からこわばりが消えていくのがわかるような、長く濃厚なキスだった。
口づけを終えると、男が女の肩を抱き、女が男の身体になかばもたれるようにしてふたりはふたたび歩き始めた。
これからふたりがどこに向かうのか、和歌子にはわかっていた。
和歌子は男を知っていた。
宮河内進一郎、三十六歳。宮河内グループと呼ばれる旧財閥系のコングロマリットの総帥、宮河内耕次郎の長男である。グループ内の繊維部門を統括する会社エムズ・ファッションの社長であり、和歌子の夫だった。
和歌子は横浜生まれの横浜育ち、父親は美術大学で西洋美術史を教える大学教授、母親は音大でピアノの実技を教えていた元ピアニストだった。都内の名門私大K大学の文学部で英文学を学んだ和歌子は卒業と同時にエムズ・ファッションに入社した。宣伝部を志望したが、配属されたのは秘書課だった。半年間の研修期間後、和歌子は社長室付きの秘書の一員となり、社長である進一郎に見初められたのだった。
財閥の御曹司、生まれながらに将来を約束されたサラブレッドだとはいえ、三十を過ぎたばかりの若さで社長の座に就き、微塵の迷いもなく会社の舵取りをしていく進一郎の姿に和歌子は魅せられた。進一郎はプライベートでも自信にあふれて決断力があり、同年輩の優しいだけの男たちとは違う成熟した大人の魅力があった。
三十五歳までに結婚し、自分の跡を継ぐ子供を持つという進一郎の帝王学に基づく人生プランのままに、二年あまりの交際を経て、三年前、和歌子は結婚し、会社を辞めて社長夫人となった。
交際期間中、時間に追われタイムスケジュールに縛られている進一郎とのデートはバリエーションが限られていた。会社の近くのお気に入りの店で食事をし、副都心にそびえたつアメリカ資本の高層ホテルで一夜をともにする。それが定番のデートのパターンだった。
中央公園に沿ったこの舗道は何度となくふたりで歩いた道であり、枝ぶりのよい大きな街路樹の下は初めてキスを交わした場所でもあった。
いま、その道を夫が別の若い女と歩き、思い出の樹の下でその女と濃厚なキスをしてホテルに向かっている。
しかも和歌子はその女を知っていた。
滝川紗也香──エムズ・ファッションに入社して二年目になる、社長室付きの秘書だった。いわば、和歌子の後輩であり、会社の謝恩パーティで言葉を交わしたこともあった。五年前の和歌子と同じ年齢で同じポジションにいるその紗也香と、夫である進一郎が浮気をしている。しかも五年前の和歌子の時と同じコースを使い、同じ手順で──。
(……どうして……こんなことを……)
夫が浮気をしている、青天の霹靂である事実への驚きよりも、浮気相手との逢瀬が夫と自分の恋愛時代のデートを寸分違わずトレースしていることに和歌子は愕然とし混乱していた。
自分がいったいなにを望んでいるのかもわからないままに和歌子はふたりのあとを尾け、気がつくとホテルのエントランスを抜けて広々としたロビーに立ち尽くしていた。すでに部屋に向かっているのだろう、フロントにもエレベーターホールにもふたりの姿はなかった。
だが、もしふたりがまだロビーにいたとしたら、自分はどうしたのだろうか、和歌子にはまるでわからなかった。
「お相手が見つかりませんか?」
突然、背後から声をかけられた。
驚きにビクンッと身体を震わせて和歌子は振り返った。
ネイビーブルーのスーツをピシッと着こなした長身の男が立っていた。端正な顔立ちをした三十前後の男だった。
「もしよろしければ、僕の部屋で過ごしませんか?」
ホテルの部屋という意味なのだろう、男はロビーの天井をチラリと眼で示しながら笑みを浮かべて言った。こういう柔らかで優しげな男の笑みが好きでしょうと言っているような、自信に満ちた笑みだった。
「……いえ、結構です……待ち合わせの約束があります……」
和歌子はとっさに嘘をつくと、逃げるように男の元を離れた。
「──本当ですか?」
男の視線を背中に感じながら和歌子は走りだしたい気持ちを抑えて平静を装い、ゆるやかなカーブを描く地下への階段をおりた。
五年前の記憶の通り、吹き抜け状になった地下にそのバーはあった。ニューヨークスタイルのスノッブなジャズバーだ。
若い女と浮気をしている夫のあとを尾け、ホテルのロビーで男をあさる淫らな女と間違えられて男に誘われ、あわてて逃げだした。このまま家に帰ったらみじめになるだけだ。せめてお酒を飲んでジャズを聴いて帰ろう。和歌子はそんな思いとともにバーに入った。
白と黒を基調としたモダンな内装、ゆったりと配されたテーブル席は半分ほど客で埋まっていた。
奥のコーナーに設えられたライブスペースでピアノ・トリオが演奏していた。樽のように太った黒人の老ベーシストとやはり年老いた黒人のドラマー、ピアニストは日本人だった。二十代そこそこだろうか、長い黒髪が顔にかかる細面のまだナイーヴさを残した若者だった。
和歌子は長いカウンターの端の席に座った。バーテンダーが前に立った。人生のすべてを知り尽くしている哲学者のような顔をした初老のバーテンダーだった。
「なにを飲まれますか?」
バーテンダーが静かで穏やかな声で訊いた。あなたをお待ちしていました、ここはあなたのいるべき場所です、そう肯定してくれているような響きがあった。
「モスコミュールを──」
「かしこまりました」
それ以上の選択はあり得ません、そう言うようにバーテンダーが微かにうなずいた。
ほどなくしてカウンターに厳格な手つきで白く丸いコースターが敷かれ、たけのあるグラスに入った淡い琥珀色のカクテルが置かれた。グラスの縁に完璧なバランスでライムが添えられている。
和歌子はひと口飲んだ。微かに甘いライムの香りが口腔に広がり、さわやかな喉越しとともに冷えた酒精が胃の腑へと落ちていく。品のある美味しいカクテルだった。身体のこわばりと緊張感がスーッと溶けていくような心地よさがあった。和歌子は誘われるようにもうひと口飲んだ。
驚きと困惑という感情が強い酒精によって鎮静化されると、夫が滝川紗也香と浮気をしている、かつて私とそうしたようにこのホテルで滝川紗也香と寝ている、という事実だけが残った。どれほど強い酒精を飲んでも事実が事実であることは変えることができない。
その事実を前にして私はどうしたいのか、なにをなすべきなのか──和歌子にはまるでわからなかった。なにかを考えて決断する以前に、私が私でいられるはずの場所を失ってしまった。そんな宙ぶらりんな思いだけがあった。
カウンターの中ほどで男が酒を飲んでいた。和歌子は見るともなく男を見つめていた。
短く刈りあげた髪、猛禽類のような険のある眼と鋭く尖った鼻、そして分厚く意志的な唇──、黒いTシャツと黒のジャケット、全身黒ずくめのがっしりとした体躯から禍々しい負のオーラが漂っている。
年齢は三十代後半だろうか。なにを仕事にしているのか、ビジネスマンにはまるで見えなかった。
ジンなのか、ウォッカなのか、透明な酒精をロックで飲みながら男は遠い眼をして自分の思いのなかに沈んでいた。
どこか人を寄せつけないその姿がかえって、行き場を失った和歌子の心を引きつけていた。
ロビーで誘いをかけてきた男と一夜をともにしたとしても相手と自分の薄っぺらな関係が際だつだけでみじめさが増していただけだっただろう。だが、この男に抱かれれば、みじめさを感じずにすむかも知れない。和歌子の脳裏をそんな思いがかすめた。どこに行きつくのか、結果がどうなるのか予測がつかない危険な匂いが男にはあった。
どのくらい男を見つめていたのか。おそらく長く見つめ続け過ぎてしまったのだろう。視線に気づいた男が顔を起こし、和歌子を見つめ返した。心の底まで射抜いてくるような鋭い眼だった。
(いけない──)
狼狽も露わに和歌子は視線をはずすと、気まずさを繕うようにグラスを手に取って、カクテルを飲んだ。だが、酒精の味はまるでしなかった。
男が自分を見つめ続けていることが和歌子にはわかった。顔だけではない。スーツに包まれた身体を吟味する男の視線を感じた。
和歌子はさらにもうひと口カクテルを飲むと、恐る恐る顔をあげ、ふたたび男を見た。男は和歌子を見つめ続けていた。男が自分に興味を持ったことがわかる危険な光を帯びた意志的な眼だった。
この男と関わりあうべきではない──女の本能が警鐘を鳴らした。