映画といえば、誰もが浮かべるこの顔、水野晴郎。解説者のみならず、監督としてもさらに映画の道を突き進んでいる彼はにこやかに、そして丁寧な口調で性という側面から映画を語ってくれた。お茶の間では絶対に見られない水野晴郎がここにいる。
当時の映画は性行為は絶対に御法度でしたけど、裸はけっこう許されていました。でも、下の部分はもちろんダメ。ベッドシーンすらなかったですね。
今であれば、映画の中で男と女のベッドシーンはストーリーとして絶対に必要な場合もありますが、当時は全然表現しなかったですね。主に裸を見せてもらえたのは、せいぜい入浴シーンでしたね。あとはそうねー、ラブシーンにしても、立ったままのキスとかそんなもんですよ。当時はそういう風に男と女の交わりを表現していたわけですよ。活字のように次のシーンのイマジネーションをかき立てていたんですね。
僕なんかはこれを見て育ってきているので、そういう表現の方がむしろ感じますよね。今の映画のように延々とベッドシーンまでなだれ込んで、女性が上位してヤルとかってなると、ちょっと辟易する感じがありますね。「もういいじゃないか、そこまで見せなくても。我々の心で感じとればいいじゃないか」って思う時もありますね。
今のような激しいベッドシーンになった契機は、アメリカ映画の表現の基準が変わった時ですね。アメリカ映画はこのままじゃダメになるということで、表現を緩めたことがあるんですね。昔は麻薬、黒人と白人が手をつなぐといった表現さえ全部ダメだったんですよ。「そんなことをしていたら何の表現もできないじゃないか」という運動が起きましてね。それで一斉に解放しようじゃないかという動きが広がり、急激に性表現も増えていったんですよ。それがどんどんエスカレートして今のような状況になっているんです。
とはいえニューシネマに色っぽい表現はあまりなかったですね。それよりはフランスやイタリアの映画の方がはるかに多かった。人間表現ということでね。よくアメリカ映画のギャグに「うちのお父さんとお母さんはフランス映画のようなことをやってる」とかありましたよね。これで分かるようにフランス映画にはエッチな表現がたくさんあったということですね。
いうのも、アメリカ映画の場合はお金がありますから、スペクタクルとかアクションを作れるんですよ。市場が大きいからそれでも儲かるわけですね。でも、日本とかヨーロッパの場合はそれほど市場が大きくないので、予算が限られてくる。すると、どんどん人間の中へ中へと追求した表現になっちゃうわけですね。それ故に人間を突止めていくと、セックスになるわけです。だからこそ、そういう表現に凝るようになるんですね。ヨーロッパの映画と日本の映画に通じる陰の美学はこういう理由があるんじゃないでしょうか。