文壇の鬼才、島田雅彦。役者のような風貌が女性にも人気の彼は、リビドーを満足させるためグローバルな活動を行っていた。各国の歴史、文化、そして自らの経験を踏まえた彼の性理論がここにある。
『彼岸先生の寝室哲学』にも書いてありますがエロスクラップは本当に作ってました。みうらじゅんがそういうことをやっていたって書いてあって、「仲間だ!」と思いましたね。たぶん、私は妄想のハーレム作りをしたかったんでしょうね。
エロスクラップに集める、集めないには厳密な基準があるのですが、言葉で説明しても実際に集めてみたものに照らし合わせると矛盾が生じる(笑)。何を見て自分が興奮して、ハーレムに加えたのかを改めて考えると私はドン・ファン型でした。年齢も幅広くて、日本人だけじゃなく巨乳もいれば貧乳もいるというように実にバラエティに富んでいました。
制作過程について話すと、まず対象の女性を選び、その次にパーツとかポーズの選択になります。例えば同じ女性の写真が多ページに展開されていても、その中から選ぶのは一つか二つになるわけで…。そうなると選ぶ基準はある部分。そのある部分がもっとも美しく強調されているカットを選ぶことになりますね。
私の場合、裸で正座しているポーズとか好きですね。あるいは体育座りみたいに膝を抱えている状態。自分に服従しているという錯覚に陥るから好きなのかもしれないですね。つまり、小津安二郎が原節子をいつも畳の上に正座をさせていた心理と似ていると思います。
原節子はハリウッドからデビューする、しないっていう話もあったぐらいで、ある意味和製ヤンキーというか、和製ヨーロピアンビューティというところがあったわけです。そういう彼女をあえて畳の部屋に正座させて、男たちに敬語を使わせる。これが持つ潜在的な意味ってすごく大きいですよ。
これを見て喜ぶのは、敗戦で一切の自信を剥奪された情けない日本男児たちです。この人たちがそんな原節子を見てある妄想に耽ったに違いない。つまり、ヤンキー女たちをひざまずかせる日本男児という妄想ですね。
そういう意味で小津が撮る女性は極めて厳密に計算された構図の中に配置されているわけです。さすがに原節子や岸田今日子、岩下志麻に簡単に「脱げ!」なんて言えませんからね。着衣のままだけども、ポーズやカメラアングルに徹底的に拘って膝小僧なり、あるいは畳の上を歩く踝なりを撮って全てのエロチシズムの表現を盛り込んだわけですよ。
その後、みんな脱いでくれるようになったので私たちは幸せになりましたが、ポーズや構図においては先人の試行錯誤をちゃんと引き継いでくれないと困るんですね…。
まあ、このような影響を受けて私は正座をしている女性が好きになったんでしょう。