文壇の鬼才、島田雅彦。役者のような風貌が女性にも人気の彼は、リビドーを満足させるためグローバルな活動を行っていた。各国の歴史、文化、そして自らの経験を踏まえた彼の性理論がここにある。
セックスというのはもちろんフィジカルなぶつかり合いです。ものすごく即物的なものであると同時にものすごく観念的なものでもある。人妻だっていうだけで興奮する人もいるわけだしね。
要するにシチュエーション、役割などを妄想してエッチな気分になるわけじゃないですか。ここにあるフランス書院にしても観念でもって勃たせるものですからね。入るまでのプロセスでどのように妄想を広げていくかの勝負。観念操作にものすごく凝っている。私自身、いかにもポルノグラフィックな世界が展開されるものより『ママと看護婦のお姉さま』(櫻木充著 '01刊)が持つ何か違う本かもしれないという感じの方が惹かれますし。
実際のセックスにしても観念的な部分で共有しうる相手でないとやはり燃えないんですね。例えば、アフリカでは日本でするようにあっちこっちを触っても、くすぐったがって「何してるの?やめてくれ」と。つまり前戯という観念がないんです。いきなり入れちゃうわけです。ある意味、純粋な生殖に対する欲求ですね。
よく考えると、前戯をするとかセックスの前に食事に行くのって付随的でしょ。生殖に直接関係ない。つまり、前戯は全然本能ではないのです。すごく文化的な問題で、言い換えれば本能をしっかり発揮させてもらうためにネゴシエーションしているということです。この流儀次第でモテる、モテないが決まってくるというのはやっぱり文化でしょ。
だから現在の我々のセックスも単なる生殖のためにじゃないんですね。平和でもなければ、どこかの部屋に二人でしけこんで「ああでもない、こうでもない」って言ってられませんよ。日本人のこういった観念的な助平は江戸の太平200年の間に作られたと思いますよ。そして現在もそれを引きずっているわけです。
今後、こういった観念はさらに高まっていくと思いますが、観念を支えるのはフィジカルですよ。それが衰えているのはゆゆしき問題かもしれない。戦争が日常的にある、あるいは徴兵制がある、といった男が常に生命の危険にさらされている地域と比べると、セックスへの欲求が低くなっていくのかもしれないですね。
やっぱり危機感を抱いていないと発奮しないんです。つまり、男には子孫を残そうとする本能が働くからね。あるいは生命の危機に瀕した場合、例えば「徹夜明けで過労死しそうだ」といった状況になると、「このまま死んでしまうと子孫を残せないから、死ぬ前に一発ヤッとこう」という状態になるんですよ、体は。徹夜明けの疲れマラってご存じでしょ。これも同じことなんですよ。