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今月の放言

オスになりたい しりあがり寿

直筆短冊

日本のフォーク黎明期を支えたなぎら健壱。あくまで硬派なアングラフォークシンガーとしての顔を持つ一方、性への旺盛な探求心を持つ彼が、ビニ本やエロ画像収集などディープな趣味の話を歯切れよく語ってくれた。

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プロフィール なぎら健壱

1952年東京都生まれ。1970年、中津川フォークジャンボリーに『怪盗ゴールデンバット』で飛び入り参加。1972年、ファーストアルバム『万年床』発表。以降、音楽活動のかたわら、テレビ、ラジオ、執筆など幅広い分野で活躍中。主な出演番組に『出没!アド街ック天国』『タモリ倶楽部』、著書に『日本フォーク私的大全』『酒場漂流記』『下町小僧』『東京の江戸を遊ぶ』など多数。

第2章 硬派のフォークシンガー

20歳過ぎて、フォークシンガーとしてプロで活動し出すんですけど、硬派でしたからね。社会を斜めに見て、やれ政治はどうだ、ベトナム戦争はどうだって言ってるわけですから、頑ななまでに女性に関することは匂わせなかった。

そういうことを言うと、マイナスになるんです。自分のいる位置が落っこちていく気がしてね。本当は、男だから女性が欲しい。だから彼女ができても陰で付き合って、連れて歩いたりはしなかった。

当時硬派のフォークの人達は、テレビに出ないっていう風潮があったでしょ。「フォークやってる人間が、歌謡曲と一緒にちゃらちゃら出てたまるか」って。でも本当は出たいっていう気持ちもあった。それによく似てますよ。

ディスコでナンパとかしてた連中もいたみたいだけど、そういうこともしたくなかったですね。それを汚らしいとか言っちゃうと美化しているみたいだけど、硬派な部分からそういう考えになったんでしょうね。

かっこいいんだって先輩に言われてることを守る。それがフォークを守るってことだと思ってた。自分の中のステイタスですよね。女性の影も匂わせちゃいけないし、ある意味ツライけどそれが当たり前だと思ってた。

当時、日本の経済がやっとよくなり、完全に「戦後」が終わって、平和の象徴として万博が開かれた。でも実際は、受験戦争、公害問題、目の前にはオイルショック…ものすごく不安で問題を抱えてる時代でしたよね。だから、自分のメッセージを聞いてもらいたいって思ってる若者が多かったんです。で、たまたま私はフォークを選んだ。

その頃、流行のサイクルって非常に早くてね。アングラフォークが出てきて、メジャーなレコード会社がどんどん売り出し始める。それでも足りないから、歌謡曲の歌手にフォークを歌わせる。やがて流行りが廃れて、我々が看板に掲げてたベトナム戦争が終結する。次にニューミュージックが台頭してくる…それだけのことがとても短い間に起こったんですよ。

フォークのブームが去って、ぱったり仕事が来なくなった。で、もう女性のことも隠したりしないで大丈夫だなって時に、今度は金がなくなっちゃってね。性の余裕は金の余裕、心の余裕でもあるわけですから。…それだけのことがとても短い間に起こったんですよ。

自分は何をやってたんだろうって思いましたよ。頑なに硬派を守って、世の中に訴えかけていくんだって言って。世間での自分のイメージががらっと変わったのは、フォークがダメになった頃ですよ(笑)。当時を知る人間はみんな口を揃えて「なぎらって、怖かったなあー」って言いますもん。

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