その筋の人に間違えられたこともあるという、現役時代のトレードマークであった「パンチパーマ」が、芸名の由来だ。'89年にオリックスからドラフト1位で指名されるほどの野球エリートでありながら、親しみやすいキャラと精悍なマスク。これでモテないわけがない。武勇伝をあげたらキリがないが、そこに悪評は残らない。愚直なまでに実直な性格は、たとえ一夜限りの関係の中においても女性に伝わるのだ。
大学ではバンバンでしたよ。僕がいた当時の亜細亜大学野球部っていうのは、日本の大学野球部の中で最も休みが少ない大学だったんです。休みは3ヶ月に1度とかですから。その貴重な休みにソープに行ってましたよ。新宿『ニューグランド』とかね。1時間に3発とか平気でやりましたね。あと当時は、のぞきとストリップが流行っててよく行きました。
今は変わっているんでしょうけど、当時うちの野球部には出会いが全くなかったんですよ。だって毎日練習で、学校に行かないんだから。しかも僕らは立川市からず~っと奥に入ったところで、部員100人の寮生活を送っていたんです。しかも5人部屋ですよ。オナニーはトイレでサクッとすませるっていう。ホント刑務所以下ですよ。風呂に入るときに後輩が「お疲れさまでした!」って入ってきて、そこでおちん×んの先にティッシュがついてるやつがいて「オマエ、さっきオナニーやってきただろう!」みたいな(笑)。
当然、コンパなんかやったことがないわけです。大会の開会式中によその大学のやつが「この間のスナックのママがよお」なんて話をしているのに、僕らは「2週間ぶりに女子高生とすれ違ったぜ」っていう(笑)。もうそういうレベルですからね。当時、好きだった女優さんは、竹下景子さんや吉永小百合さん、夏目雅子さんでした。でもそれは雲の上の存在で、憧れみたいなもので、現実の性の対象ではなかったですね。
激変したのは社会人になってからです。当時お世話になっていた熊谷組の寮が飯田橋にあって、赤坂、六本木、新宿、銀座……どこに出るにも便利だったんですよ。僕を気に入ってくれた大学病院の先生に飲みに連れて行ってもらって、そこで「大人の遊び方」みたいなものを学ばせてもらいました。台湾クラブの全盛期だったのよく行きましたねえ。
その頃から彼女というか、ごはん食べるだけのコ、ご飯を作ってくれて、そのコの家でやらせてくれるコとか、そういう色んなジャンルの女性ができてきましたね。でも一番モテたのは、やっぱりプロ時代でしょうね。