カチカチカチ。

 六時を指す時計を見て綾子はあわててお茶の準備をしていた。

 この一週間、水曜日までの日々がなぜかとても長く感じられた。

(ちょっと若すぎるかしら、このデザイン……)

 先週買ったばかりのピンクのニットを気にして洗面所の鏡に映す。丸く大きく開いた胸もとからは、ふくよかな丘陵がわずかにのぞいている。お揃いのタイトスカートはややミニで、前に入ったスリットが太腿を露わにする。

(お部屋に入った時、足が見えたらどうしよう)

 後ろ姿をなぞる徹の視線を想像し、綾子は勝手に身体を強張らせた。そういえばニット素材だから下着の線が結構目立つ。確かめるように指を這わせると、パンティラインがしっかり浮きたっている。

(ああん、やっぱり……でも、見ないわよね、こんなとこまで、だって私)

 困ったと言いながら、そんな無防備さを見られることに淡い期待を抱いてる自分に薄々気づいてはいた。

 はじめから徹の視線が普通でないことも感じていた。部屋でお茶を運ぶ時、張りつくような視線が上下に何度も身体をなぞるのに耐えていた。胸のライン、尻の盛りあがり、ふくらはぎの肌……時に乳首の先一点を執拗に見つめられたこともあった。

「ふうっ……私ったら」

 綾子は洗面所から出て台所に戻った。

 あの目を思いだし、内股の間がじっとり汗ばんでくるのを覚える。視線で追いまわされても決していやではなかったし、むしろ軽く興奮さえしてしまっていた。

(だって、たとえ主婦だって綺麗なほうがいいでしょ? 身だしなみは礼儀だもの、そうよ、なんてことないわ)

 男の視線を意識して装う自身に言いわけしながら、綾子は腰をねじりながら包丁を動かした。もうすぐあの部屋に行くことを思うと、だめだと思っても鼓動が高鳴ってしまう。

「痛っ!」

 包丁はメロンの弦から横に滑り、白い指先をかすった。

 

「大丈夫ですか? 声がしたもので見に来たんです」

 すぐ後ろに徹が立っていた。あわてて来たのだろう、心配そうに口を開けている。

「あ、ええ、ちょ、ちょっと手が、滑っただけ」

 妖しい想像をしていた相手が目の前に現われたことに、卑しい心を見抜かれたようでしどろもどろになる。

「血が……絆創膏は?」

 言いながら徹は救急箱を目で探しているが、他人の家なので勝手がわからず立ちつくしている。ふたりの間に沈黙が流れる。

「あ、もう、これ使ってください」

 細い指先から垂れる血に、徹はジーパンのポケットのなかからわしづかみにして皺くちゃのハンカチを差しだした。と同時に、レースに縁取られた生成りの薄布が丸まって床に落ちた。

「……え」

 人差し指を右手で押さえたままの綾子の視線が、そこに注がれた。

「あ!」

 淡い生成りの綿生地は、床に落とされてゆっくりと開いていく。丸い玉だった布きれはやがて、三角のパンティの形になって現われた。

「え、こ、これって……」

 綾子の頰がみるみる赤く染まり、声が震えているのがわかる。

「いえ、あの、その……」

 それはまぎれもなく綾子のパンティだった。毎日ポケットに忍ばせて、絶えず手のなかでその感触を愉しんでいた大切な匂い袋。

「い、いや……ど、どういうこと?……それって私の……」

 叫びをあげた直後にも綾子は息子に聞こえまいか心配して小声になった。

「あの、あの……す、すみませんっ! 僕、僕、その……」

「徹さんが? 私の……を?」

 徹は恥ずかしさで顔をうつむいたまま固くなって言葉も途切れがちだった。

「すみません! すみませんっ!」

「……まあ、信じられない……」

 ふたりは床にひろがるパンティを見つめながら向かい合った。やがて綾子は真っ赤になってしゃがんで指先にそれを拾うと、あわてて手のなかに隠してその手を後ろにやった。

「奥さん、すみません、僕、つ、つい……この前奥さんが外出された時、ここにカップを片づけに来て、それで、そこの扉が開いてて……」

 徹が指差す洗面所のほうに綾子も視線を投げて、また戻した。

「……見えちゃったんです、その、あの、お、奥さんのパ、パンティが……それで」

「それで?」

 ややきつい語調で綾子が促す。押し殺した声は怒気とともに震えて裏返っている。

「それで……あの、つい手にとって見ていたら、その時奥さんが帰ってらして、僕、やばいと思ってそのままポケットに……」

「持って帰ったっていうこと?」

「はい……」

「……ひどい」

 綾子は話を聞き終えると残念そうに消え入りそうな声でうなずいた。ふたりの間に沈黙がつづく。

 脂汗が滲み、顔から火の出るような恥ずかしさにとらわれた徹は、全身を硬直させ直立していた。

(まさか、そんなこと……気づかなかったわ、ああ、一週間もあれを持たれていたなんて、まだ洗ってないのに)

 洗ったものならばまだしも、使用済みの汚れたパンティを持たれていたことに激しいショックを受けた。

(きっと、アソコの汚れにも気づかれたわ……見てない? ううん、見たわよね、ああ、私けっこう汚しちゃうのに)

 下着を盗まれたこと以上に、それが使用済みのものだったことが綾子を辱しめた。ピンクのニットを着て綺麗な奥さんを装ってみても、下着があんなにべっちょりと汚れていては興ざめだろうと思った。

 黙りこむ綾子に困ったのか、徹はなにかを言おうと口を開けては閉じてを繰りかえすが言葉が出ない。

(ああ、奥さんに変態だって思われてる!)

 取りかえしのつかない後悔が押し寄せる。だがもはやどう言いわけしても通じるはずもない。

「ねえ、それ、どうしたの?」

「え?」

 ようやく開いた綾子の口から出た言葉に、徹は目をあげた。

「それ、どうしてたの? ずっと、持ってたの?」

 持っていただけならまだいいが、きっと開いてあの染みまで見られただろう、それが気になって仕方がない。

「え、あ、はい……ずっと持ってました」

「持ってただけ?」

 質問の意図がわからない徹は首を左右に揺すりながら言葉を探している。

「だから、持ってただけ? その、なかを見たり、あの……匂ったりしなかった、って聞いてるの」

 恥ずかしい問いに綾子の声が震えている。早く気づいて答えてくれたらいいのに、ここまで言わさないで欲しいという怒りもはらんでいる。

「あの、に、匂いました……」

 やっぱり、という落胆と羞恥に美しい顔が歪む。

「でも、すごくいい匂いでした! あの、酸っぱいような、鼻にツンてくる、すごい匂いで……」

「やめて! 言わないで!」

 徹の告白はあまりに生々しく、耳をふさいで声をあげた。すぐに、声が大きかったことに反省して声を潜める。

「なに言ってるの? そんなことやめて!」

「すみません、でも、あの黄色いところ、すごくきつい匂いがしてたまんなくて……顔近づけたら鼻の頭についちゃって、匂い取れなくて……」

 罪悪感は消え、思いだしただけで光景が甦り、饒舌になる徹は恍惚とした表情でまくしたてる。

 秘部からの汚れに触れたと聞いて綾子は、顔から火が出そうに恥じた。

「そ、そんなこと、よして」

 こんな不良教師、家に出入りさせたくないが、隣家でもあるので関係をこわすわけにもいかない。徹の母親に言いつけたいものの、それもためらわれる……表向きの言いわけが浮かんでも、どこかで許している部分がある。

「あの……」

 困惑して立ちつくす徹に、綾子は広樹を気にして抑えた小声で尋ねた。

「ねえ……教えてちょうだい。どうしてそんなことをしたの? 私、あなたが真面目で頭もいい学生さんだって聞いていたし、信頼してお母様にお願いしたの。こんなことするなんて信じられない」

 強張った表情で詰問された徹はつらそうにもじもじしている。なにを言いわけしても許されるはずがない、それどころか憧れの綾子に忌み嫌われてしまう……取りかえしのつかない後悔が襲う。

「なんとかおっしゃったら? 黙ってるなんて卑怯だわ! なぜこんなこと……」

 卑怯と言われて顔をあげる。なんとしても綾子に嫌われたくない。

「ぼ、僕……綾子さんが好きなんです! ずっと憧れてて、それで、奥さんがいらっしゃらない隙にこんなもの見ちゃって、もうとめられなかったんです!」

 綾子は、一まわり以上も年下の学生の叫びに耳を疑った。

「か、からかわないで。そんなこと言ったら許すとでも思うの?」

 声が震えているのが自身の耳に響き、綾子は動じた。侮辱されているのか本気なのか判断がつかない告白に、どうしていいかわからない。弱いところを見せてはいけないと気を引き締めても、恥ずかしさと悔しさで芯がぐらついてしまう。

(ああ、そんなことって……私みたいなおばさんに? まさか……でも、真面目に言ってるみたいだわ)

 面白みのない仕事人間の主人と結婚して以来、男とは誰とも接触してこなかった綾子にとって、目の前に打ちひしがれる大学生の言葉は衝撃的だった。

「う、嘘おっしゃい……そんな、からかわないで、失礼だわ」

「嘘じゃありません! 僕、綾子さんが好きなんです! いけないとはわかってたけれど、パ、パンティを見たとたん、もう我慢できなくて」

「ふざけないで、そんなことありえないわ」

「信じてください、僕、綾子さんに憧れてるんです! だから、今、こんなこと見つかって、なんてことしたんだって、本当に申しわけなく思ってます!」

 徹はキッチンのフローリングに膝をついてしゃがみこんだ。

「…………」

 打ちひしがれて床に手をつき謝る姿を睨みつける視界が涙で曇る。

「ずっと持ってました。寝る時も、学校行く時も、いつもポケットに入れて……」

 胸のうちを吐きだして少し落ち着いたのか、真っ赤な目をあげて綾子を見た。目が合うと今度は綾子のほうが動揺し、耳まで染めて潤んだ瞳と息苦しそうに開いた唇で一途に思いつめた青年を見返す。

「ゆ、許してください……」

「……もう、こんなことしないって約束して」

「す……すみません、もう、しません」

 燃えるような綾子の瞳から大粒の涙がぽたりと落ち、床についた徹の手の甲に散った。

「わかりました……あの子が変に思うから普通の顔をして、部屋に戻ってください」

 しおらしく部屋に戻った徹は、開きかけの算数の参考書にぼんやりと視線を落としたまま力なく広樹の後ろの席についた。

(こんなことって……私、からかわれてるの? それとも……今度からどうしたらいいのかしら)

 今から何事もなかったふりをして部屋にフルーツを持っていかなくてはならないことが恨めしかった。あの視線に耐えられるだろうか……火照った身体は内腿からじっとり汗をかいている。

 綾子は洗面所でファンデーションを整えると、鏡に笑顔を作って台所に向かった。

 

 

(次回更新は9月5日です)