交尾教壇【三匹の女教師】

第一章　悪魔生徒の罠に堕ちた新任女教師

　その異常事態が起きたのは、斎藤美織が帰宅しようと校門を出た時だった。
　翌日が校内一斉テストなので授業は五時限までで終了、顔見知りの女子生徒が息をはずませて彼女を追ってきた時には、すでに夕闇が迫った校内に生徒の姿も他の教職員らの姿もほとんど無かった。
「先生、大変です！」
「あら、桜井さん、どうしたの、そんなにあわてて？」
「金山くんが……金山くんがイジメにあってます」
「金山くんが？」
　美織は驚いて大きな黒瞳を見開いた。
　金山帝王は目立つ生徒だった。
「帝王」というのはニックネームではなく本名だった。だが金山自身は体格こそ年齢のわりに大きかったが、物静かな生徒で、とても「帝王」というイメージではない。実業家として財をなし、去年この学園に息子を編入させるやいなや巨額の寄付をして理事会の面々の度肝を抜いた彼の父親が、溺愛する一人息子に与えた名であった。ただ金山は勉強が出来、転校してきて以来二度行われた校内一斉テストで二度ともぶっちぎりの成績でトップの座に君臨したので、その意味でなら「帝王」というのもまんざら似合っていないわけでもなかった。
　自分の担当ではない生徒の金山に、新任教師として今春この学園に採用されたばかりの美織が関心を持っているのは、その学力優秀ぶりのこともあるが、一度昼休みに図書室で読書している彼を見たことがあり、印象深かったからだ。
　閲覧机の間を通って書庫へ向かっていた時、五、六冊の本を机上に積み上げたまま、一冊の本に覆いかぶさるようにして熱心に読みふけっていたのが彼だった。
　周りに見えない壁を作って自分の世界に閉じこもっているように見える硬質な雰囲気に、
「読書家なのね」
　思わず美織が声をかけると、男子生徒はまるで悪事を見咎められでもしたかのようにパタンと本を閉じ、眉根を寄せてマジマジと美織の顔を見上げた。
　美織はその本のタイトルを見た。
「グロビンスキー自叙伝」
　ひと目で子供向けの本ではないと分かった。グロビンスキー……誰だろう？　どこかで聞いたことのある名だ。
　美織が本のタイトルに注目していることに気づくと、男子生徒は、
「これ、僕の本です。うちから持ってきたんで」
　言い訳するように小声で言い、本を自分の学生カバンの中に入れた。
　美織は机の上に積み上げられた書物の背表紙に目をやった。いずれも東欧諸国の歴史に関するものだった。どうやら男子生徒は、自分の愛読書に書かれてある内容を、図書室に保管されている専門書の記述と照らし合わせていたらしい。
「君、名前は？」
「金山です。金山帝王」
「あ……」
　一度聞いたら忘れない名である。
　なるほど、これがあの噂の生徒、金山帝王か。他の男子生徒らがグラウンドでサッカーボールを追いかけている時に、年齢にそぐわない本を読みふけっているのはさすがである。知的な面で早熟なのだろう。
　その時には、二言三言、言葉を交わしたきりであったが、その金山がイジメにあっていると、いま女子生徒に聞かされて美織はドキッとした。
「どこで？」
「理科実験室です」
「分かったわ！」
　誰にイジメられているのかも訊かなかった。学生時代から真面目で正義感が強く、ＮＰＯ団体のメンバーの一人として香港の民主活動家らを支援する政治活動にも熱心に取り組んできた美織である。新任教師ならではの教育に対する熱い情熱もあった。イジメを見過ごすことはできない。
　クリーム色の清楚なプリーツスカートをひるがえし、美織は夕闇の迫る校内を理科実験室のある校舎に向かって全力で駆けた。