「抱きなさい、カイト。わたくしはあなたの性奴隷なんですから」
炎のような赤髪、緋色に輝く眼、侯爵令嬢、エルフリーデ・ハイランドが、
傲慢な物言いとは裏腹に初めてのキスで蕩かされ、可憐な純潔を捧げてくれる。
婚約破棄で王子の婚約者という立場から解放された彼女を俺の性奴隷(モノ)に!
記憶喪失の身の俺は、以前も誰かを奴隷に堕とした記憶が微かにあるけれど、
今は勝ち気だけど敏感でエロすぎるエルを、ラブラブ独占調教中です!
超人気作がeブックスにまさかの転生、20万字超の渾身の全編書き下ろし!
序章 エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢の憂鬱
一章 エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢の憤慨
二章 ただのエルの日常
三章 ただのエルの懇願
四章 ただのエルの決断
五章 エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢の最期
エピローグ 性奴隷が多すぎる
本編の一部を立読み
序章 エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢の憂鬱
切り開かれた森の中の広場には、大勢の人々が忙しなく動き回っていた。
斧や鋸で木々を切り倒し、その場で木材に加工していく木こりたち。
スコップで土を掘り返し、ツルハシで岩を砕き、露天掘りの巨大な穴の底から土砂をカゴや手押し車で地上に運び上げる土木労働者たち。
ブロック状に加工された石材を並べてモルタルを塗り込む左官工と、図面を睨み大声で修正を指示する監督官。
大規模な溜池と用水路の工事現場。男臭く土埃臭い現場だが、その一角に、どう見ても場違いな一団がぞろぞろと歩いていた。
磨き抜かれた鎧を纏う騎士が十名ほどと、上品なスーツ姿の執事めいた男が一人。それと、モノクロの制服の侍女が一人。これだけでも異質だが、彼らに守られて中央を歩く人物こそ、場違いの極みと言えた。
背筋を伸ばして毅然と歩くのは、ドレス姿の美少女だった。
鮮やかな赤い髪を緩やかに背中に流しており、歩く度に揺れる様子は炎を思わせた。ややツリ目がちでキツめの印象のある切れ長の瞳には、太陽が沈む間際のもっとも色づく夕暮れ時を思わせる、深い緋色の輝きが宿っている。
歳の頃は十代後半だろうか。シャープで細面な美貌であるが、まだ僅かに幼気な柔らかさが散見される。美女となる寸前といった面立ちの美少女であった。
女性としてはやや長身な身体を包むドレスは、フリルやレースで飾られた豪奢なものだが、胸元や腰回りは身体の線を強調するようにタイトに作られ、ドレス以上に豪奢な女性的魅力を見る者に見せ付けていた。
燃え盛る篝火を思わせる、豪奢で華美な様相の赤髪緋眼の美少女。
王侯貴族が集う舞踏会のホールでも一際目立つだろう令嬢だ。であるが故に、土埃が舞い喧騒に溢れるこの場には、いかにも場違いであった。
作業真っ只中の工事現場でも……否、こういう場であるからこそ、余計に浮いて目立ち、多くの人間の視線を集めていた。彼らは少女を垣間見て、その絢爛さと艶容ぶりにゴクリと唾を呑むが、慌てて目を逸らして作業を再開する。
明らかに貴族──それもかなりの高位な──の令嬢を不躾な目で見るのは、ともすれば無礼討ちになりかねない。
何より、緋色の瞳で現場を睥睨するこの令嬢が、王都でも名高き『悪役令嬢』となれば尚の事、だった。
「──予定より遅れているようですわね」
炎を思わせる容姿とは裏腹に、不機嫌で酷薄そうな、冷淡と言っていい声が令嬢の唇から漏れる。上に立つ者特有の、聞く者の背筋をヒヤリとさせる声音だった。
「は、はい……何分、予算も限られておりますので、資材の確保に手間取って作業が中断することも……」
現場責任者らしき監督官も、ハンカチで汗を拭きながら説明する。令嬢の緋色の瞳が向けられると、ビクンと肩を竦める始末だった。
「それはつまり、予算が足りないと訴えているのかしら?」
「お、畏れながらその通りでございます、エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢様……」
しどろもどろな口舌を何とか叱咤して現場の苦労を訴える監督官に、工事現場の作業員たちが同情的な視線を向ける。
なにせ、この赤髪緋眼の少女──エルフリーデ・ハイランドは、ミランディア王国宰相の令嬢なのだ。
ハイランド侯爵といえば、国王を差し置き国政を専横する悪名高い悪徳貴族。その令嬢であるエルフリーデも、第一王子の婚約者という地位を利用して中央政治を壟断する、王都でも有名な『悪役令嬢』なのだ。
彼女の不興を買って追放された者は数知れず。
彼女の気分を害して破滅させられた者は数知れず。
あくまで噂だが、彼女の命令一つで気に入らない人物を消すため、凄腕の暗殺集団まで飼っているという。
十代の小娘とは思えない、自信に満ちた立ち振る舞い。自分に逆らう者に容赦はしないと言わんばかりな、挑みかかるような苛烈な表情。それらを目の当たりにすれば、噂もあながち出任せとは思えない。
王都の表と裏を牛耳る魔女──そんなエルフリーデ侯爵令嬢の視察の矢面に立たされているのだ。監督官のプレッシャーはいかばかりか。
「…………」
監督官をじっと見つめるエルフリーデ。炎を宿したような緋色の瞳だが、その視線に温かみは感じられない。不機嫌そうな、不本意そうな、かすかに苛立ちが滲む眼。
監督官は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……いいでしょう」
興味を失ったように視線を動かし、侍女から受け取った資料を眺め、公爵令嬢は不機嫌そうに目を細めた。
「……追加資金を用意しますわ。あなたは三日以内に必要な資金の内訳を記した、正確な資料を提出なさい」
「は、はい……かしこまりました」
「資料は必ずわたくしに提出するように」
「は、はぁ……しかし、この工事は内務部の管轄で……」
「内務に回しても無駄な労力。わたくしは無駄が嫌いですわ」
「……かしこまりました……」
正式な手続きを無視することになるが、監督官に出来るのはただ頷くことだけだった。
やがて一通りの案内が終わって、彼女が馬車に乗って乗馬した騎士たちに囲まれながら現場を去ると、監督官は安堵のあまりその場にへたり込んでしまった。
「はぁ……すげぇ目つき。あれは絶対に人を殺してる目だ……」
苛烈さと酷薄さの同居した眼光を思い出し、監督官はぶるりと背筋を震わせた。
「……はたしてどれだけ予算が回ってくることか……」
正式な手続きを無視した資金の用立て……きっと少なくない額があの侯爵令嬢の懐に収まることになるのだろう。
暗澹たる未来に嘆息しながら、彼に出来るのは粛々と資料を制作することだけだった。
「……まったく。十分な予算が確保されていたはずなのに……確実に内務部で中抜きされていますわね。度し難いことですわね」
馬車に揺られながら資料を眺め、エルフリーデ・ハイランドは深々と嘆息する。
誇り高く毅然とした貴族令嬢らしい表情──と彼女は思っている──を歪め、目を閉じ目頭を入念に揉み込む様子は、仕事に疲れた中間管理職めいていた。
「お嬢様、こちらは早朝に届いた、外遊中の宰相閣下からの関税調整の途中経過報告です。それと、帝国大使館からの会見要請が届きました」
馬車に乗った途端、侍女が次の書類を差し出してくる。
「……お父様からの報告は外務省に回しなさい。帝国大使には一週間ほど調整時間が要るとお伝えして」
「はぁ……しかし、外務省に提出してもまともな審議が行われるかどうか……それに帝国大使を一週間もお待たせしてよろしいのですか?」
「どうせ途中経過報告なのでしょう? わたくしが内容を把握していればそれで良いですわ。帝国大使には……待ってもらう他ありませんでしょう?」
と、エルフリーデは皮肉げに笑った。
「帝国大使との会見となれば、キース第一王子殿下にも同席いただかないといけませんわ。名目上、わたくしはキース殿下の婚約者なのですからね」
「左様でございますが……」
「キース殿下を引っ張り出すのには、それなりの準備が要りますわ。何しろ今日みたいに、急に予定変更されてしまったら、我が国の恥を晒すことになりますからね」
エルフリーデはやや投げやりな、疲れて億劫そうな声で言った。
よくよく観察すると、彼女の目の下に隈があった。化粧で隠しているようだが、かなりの濃さである。
「今回は婚約者のわたくしが代役という形で収めましたけれど……さすがに帝国の大使との予定を無視される訳にはいきませんわ」
エルフリーデは皮肉げに頬を歪めた。
本来、今回の視察は第一王子の役目だった。これは王都の水不足を解消する大事な治水工事なのだ。王族の視察は、この工事の重要性を改めて認識させる大事な行事……のはずだった。
「あの思い込みの激しいキース殿下ですもの……我が国と帝国の関係もどこまで理解しておられるのか……」
恨みがましく表情を歪めるエルフリーデ。眉根に刻まれた皺が、懊悩の深さを示すかのようだった。
「……何か他にはありますかしら?」
「お嬢様のご命令に従って、午後の仕事は屋敷で行えるようにしておきました。各種書類や報告書は屋敷の執務室に届いているはずです」
「そう……なら、屋敷までは休ませていただきますわね」
エルフリーデは背凭れに身体を預けた。やはり溜まった疲労はいかんともしがたく、どっと身体から力が抜ける。そのまま溶け出してしまいそうな脱力感に襲われ、綺羅びやかな美少女は、その美貌に似合わぬ老人めいた深い溜め息を漏らした。
(……あの監督官、わたくしをおそれていましたわね……)
目を閉じ、先程の視察現場で自分に注がれた視線に思いを馳せる。
(国政を恣にする悪徳宰相の娘……第一王子の婚約者の立場を悪用する悪役令嬢……まったく、呆れてしまいますわね……)
自分や、自分の父にまつわる風聞を思い返し、笑ってしまいそうになる。
(国政を恣にするも何も、国政を担うべき国王陛下が国に居ないというのに……)
現在、このミランディア王国は、目を覆いたくなる政治腐敗に悩まされていた。それというのも先代と当代の国王が、信じがたいほどの愚物だったからだ。政治を投げ出すわ、後宮で乱痴気騒ぎを繰り返すわ、昔からの忠臣の役職を奪って遠ざけるわと、暗君の見本のような王たちだった。
そんな王が王なら、臣下も臣下だ。王にすり寄って媚び諂うのが上手い佞臣や奸臣の類が跋扈し、不正と賄賂が横行して政治機能が崩壊寸前に陥った。
それでも何とか国体を維持できているのは、本当の本当に駄目になる寸前、数年前に現国王を病気療養という名目で隣国へ追い払ったからだった。
この国の混乱に頭を痛めていた隣国のルリア公国──難民やら貿易の混乱やらで本当に困っていた──は、ハイランド侯爵を中心とする良識派の貴族と官僚の願いに応え、公国に招待したミランディア国王を極めて丁重に軟禁した。
ありがたい話だ。もう公国には足を向けて寝られない。
もっとも当の国王陛下は、風光明媚な療養地で美女に囲まれて美食を堪能し、何の不満もないらしいが。
だが、役立たずどころか害悪な国王が居なくなっても、それで解決とはならない。何しろ国内の貴族たちは他人の足を引っ張ることしか出来ないロクデナシが蔓延ったままで、マトモな人材の方が少ないのだ。結果、宰相とごく一部のマトモな貴族で国政を回しているのが現状だった。
専横と言うなら、確かに専横なのかもしれない。
もっとも、暗君二代にすり寄っていた阿諛追従のゴキブリどもを自由にさせたら、あっという間にこの国は崩壊する。国の資産を好き勝手に食い散らし、イナゴの群れが通り過ぎた後みたいに不毛の土地だけが残されるだろう。肥え太ることしか頭にない連中は、国が倒れるまでその屋台骨に齧り付くことを止めはしない。
そんなシロアリみたいな貴族たちにしてみたら、国政の正常化を目指すハイランド侯爵とその一派は、自分たちの権利を侵害する憎き悪徳貴族なのだろう。連中はそこかしこで、ハイランド侯爵派の罵詈雑言の流布(ネガティブキャンペーン)に勤しんでいる。エルフリーデにいつの間にか纏わり付くようになった『悪役令嬢』という不名誉な肩書きもそのひとつだ。
エルフリーデ・ハイランドは、父親である宰相の権力で無理やり第一王子の婚約者の座を得て、その地位を利用して好き勝手している。まさに物語に出てくる『悪役令嬢』そのものだ、と。
(馬鹿馬鹿しい話ですわ……)
エルフリーデがキース・ミランディア第一王子の婚約者になったのは、彼のフォローと監視のためだった。
キース第一王子は、暗愚だった父王を嫌っている。病床にあった妻を放って他の女たちと遊び回っている父親を好きになれる息子が居たら、そっちの方が異常であろうが。
不実で柔弱な父王への反発心から、キース王子は正義感の強い武断的な性格の若者に成長した。それだけなら良い話で済んだのだが、行き過ぎた正義感は視野を狭め、武断的な性格は単純な勝ち負けですべてを解決する短絡さに繋がってしまった。
要するに『悪い奴をやっつければ全部解決する』と思っているのだ。
政治という、調整と妥協と根回しの多層構造物を仕上げるには、あまりに粗雑で短絡的過ぎる。
名目上は病気療養中の父王に変わって摂政となっている第一王子だが、その資質には甚だ問題があるので、適切なフォローが出来る婚約者──摂政の代役が必要になった。
そうして白羽の矢が立ったのが、エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢だった。
宰相の娘であり、剛腕政治家である父親譲りの実務能力を備えたエルフリーデは、まさにうってつけの人材だった。
もっともエルフリーデは、第一王子の婚約者という地位なんて、単なる貧乏くじだと思っている。第一王子に釣り合う爵位の貴族令嬢でこれまたマトモな人材が居ないから回ってきた役回りにすぎない。
なんせ、一部の良識派を別にすれば、国内の高位貴族は暗愚な王にゴマをすって地位を上げた連中ばかり。そんな連中の娘が、マトモに育つわけもない。
どの令嬢も、男にすり寄って甘い汁を吸おうという尻軽ばかり。第一王子の婚約者の地位も、贅沢三昧できる免罪符くらいにしか考えていないだろう。そんな脳足りんな令嬢たちからの、エルフリーデに対する陰口や嫌がらせは大変なものだった。
暴走しがちで短絡的な第一王子のフォローや後始末で疲労した身体に、精神までささくれさせられるのだから、これが貧乏くじでなくて何だというのだろう。
摂政である第一王子の婚約者として好き勝手している?
ええ、まったくもってその通り。
どいつもこいつもロクデナシばかりだから、自分が裁量するしかない。
他にどうしろというのだ?
(わたくしの代わりが出来るというのならやってみて欲しいものですわ……)
良識派で有能な高位貴族は数が少なく、彼らはエルフリーデの父親とともに国内のあちこちで反乱間際な領地運営の是正に頭を痛めたり、断絶しかけた国交の折衝で頭を下げる東奔西走の日々だ。結果、良識派の貴族や官僚の中で一番の決定権を持つのが、まだ小娘に過ぎない第一王子の婚約者などという事態が度々発生している。
第一王子が協力的ならまた違ったのだろうが……彼も彼でハイランド侯爵派に対して隔意を持っている。摂政である自分を差し置いて勝手なことをしている、と。
腐れ貴族たちに吹き込まれた讒言を信じ、宰相が自分を蔑ろにしていると敵視しているのだ。父や自分は、今はしっかりと政治のことを勉強するのが大切だと何度も言っているのだが……。
(甘い言葉を囁く者にこそ注意せねばならないというのに、あの殿下は……父王陛下を嫌っている割に、同じ道を歩いていると気付いていないのですから……)
いまの第一王子が政治に関わってもろくなことにならない。暗愚な王に息子へまともな教師を用意する気遣いがあるはずもなく、キース王子は本来修めるべき帝王学を修めていないのだ。それどころか、最低限の礼儀作法の習得もあやしいものだった。
政治的知識に乏しい素人の小僧が親政に乗り出すなど不可能だし、有能で信頼できる家臣団を揃えられる手管も眼力もない。
だからエルフリーデの父である宰相は、用意出来る限り最高の教師を揃えて第一王子の元に送り出したのだが……。
(剣への情熱を、少しでも勉学に回していただければ……)
悪徳宰相の寄こした教師など信用できるかとそっぽを向き、剣や魔法の修行ばかりにかまけている始末。
今日だって、本当は彼が視察に訪れるはずだったのだ。
なのに突然予定を放り出した。それも、単なる嫌がらせで。
エルフリーデとしては、少しでも民に対して第一王子の印象を良くしようと立案したことだったのだが……キース王子からしたら、悪徳宰相に押し付けられた婚約者の言いなりになどならないという意思表示らしい。
(はぁ……今頃はまた剣か魔法の訓練でもしているか……最近お気に入りの小娘とおままごとでもしているのかしらね……)
目を瞑っても、浮かんでくるのは自分を憎々しげに睨むキース王子の顔や、私腹を肥やすことしか頭にないロクデナシ貴族とその子息子女たちの嘲笑ばかりだ。
身体は疲れているのに、心がなかなか休む体勢になってくれない。最近は夜眠るにも、睡眠導入に効くハーブティーが欠かせない。そのうち本格的な睡眠剤が必要になってくるかもしれない。
(……やっぱり起きようかしら……)
けれども起きたら起きたで、何か仕事が割り込んでくるかもしれない。
仕方なく、エルフリーデは目を閉じて無理やりにでも身体を休めていたのだが……。
『敵襲────ッ!』
馬車が急停車して、脱力していた身体が投げ出されかける。前に座っていた侍女に支えられたが、突然のことにエルフリーデは思考が停止しかけた。
「お嬢様!? 大丈夫ですか、エルフリーデお嬢様!?」
呼びかけられ、はっ、と気を取り直す。
自分に注がれる気遣わしそうな視線に、エルフリーデはいつもの毅然とした表情を取り戻して相対する。
「ええ、大丈夫でしてよ。それで、何事ですの?」
座り直して外の様子を伺うと、状況はすぐに確認できた。
エルフリーデの馬車は工事現場用の連絡路として切り開かれた森の中の道を走っていたのだが、その左右の木々の間から、無数の黒尽くめの男たちが襲撃してきていた。
護衛の騎士たちは、その多くが乗馬から投げ出されて混乱していた。倒れた馬は口から泡を吹いて藻掻いていることから、毒矢のようなものを受けたと思われた。
なんとか態勢を立て直そうとする騎士たちに、黒尽くめの男たちは短剣を手にするすると近づいてゆく。その短剣も、鎖帷子を貫通するための『鎧通し(スティレット)』と呼ばれる鋭利な切っ先のものだった。
明らかに訓練された刺客たち。用意周到な暗殺者たちの襲撃だった。
「馬車に近づけるな! エルフリーデ様をお守りしろ!」
護衛隊長が発破を掛けるが、初手の混乱が抜けきらぬうちに接近を許してしまった騎士に刺客の剣が突き刺さる。
初手の奇襲で護衛の半数が無力化され、残ったのは五人。
対して刺客は欠けることなく十人。森の中には、まだ数人のバックアップもいるだろう。
『絶体絶命』
そう呼ぶに相応しい状況だった。
「抜かりましたわね……突然の予定変更でしたから、十分な護衛を用意できなかったとはいえ……」
鮮やかな奇襲を考えると、これは急に計画されたものではない。
おそらく、かなり前から襲撃のタイミングを見図られていたのだろう。
エルフリーデはずっと狙われていたのだ。
「ふふ……まさか、ここまでとは……」
命の危機が迫る状況だと言うのに、エルフリーデは思わず失笑してしまった。
「お嬢様! 笑っている場合ではございません!」
「ええ、分かっていますわ。分かっているのですけれどね……」
ふふふ、とエルフリーデは笑った。
笑うしかない。
この国のこの現状を。
自分が死ねばどうなるかすら分からない愚か者ばかりのこの国の貴族たちを。
「……わたくしが死んだら、お父様も我慢の限界でしょうね」
そうなれば、ミランディア王国は終わりだ。王国の混乱がこれ以上酷くなれば、いよいよ宗主国である『カディス帝国』が出張ってくる。
ミランディア王国は『七王三公』と呼ばれる、カディス帝国の主要な同盟国のひとつだが、実質は従属国であり、南側諸国との緩衝地帯として独立を許されているというのが実態だ。緩衝地帯である以上、帝国は王国が混乱することを望んでいない。現状でも、帝国は王国の惨状に眉を顰めているだろう。
カディス帝国は大陸でも屈指の大国だが、大国であるが故に敵も多い。ミランディア王国が混乱すれば、その混乱を口実にミランディアを占領して帝国の顔を潰したり、戦争を匂わせて帝国から譲歩を引き出そうとする国はいくらでも出てくるだろう。
緩衝地帯として機能不全となれば、帝国は王国を自国へ併呑することで火種を潰す。その際、混乱の元となった有害な貴族たちは粛清される。他の従属国に『面倒をかけさせるな』と脅しと引き締めをするためにも、粛清は徹底したものになるだろう。
「そんなことも分からないとは……呆れ果てて笑うしかありませんわ」
カディス帝国が辛うじてミランディア王国の併呑を踏み止まっているのは、有能な宰相であるハイランド侯爵の手腕と、彼の娘がミランディア王国の未来の王妃になるという、王国の更生の可能性があるからだ。
有能な宰相への信頼と、更生の可能性という希望。この二つが、辛うじて帝国に、他国の主権を奪うという面倒事を思い留まらせている。
娘が殺されれば、ハイランド侯爵も今度こそ国に愛想を尽かすだろう。感情的にも面子の上でも、報復しないわけにはいかない。
エルフリーデの死は、信頼と希望というこの国の生命線の喪失そのものだ。
「まさか、自分の死刑執行書にサインするようなお馬鹿さんはいないと……そう思っていたのですけれど……」
まさか、ここまで状況判断が出来ない阿呆がいるとは思っていなかった。自分を殺すことのリスクを考えれば、嫌っても憎んでも殺すことは出来ない。そんな風に思っていた──思い込んでいた自分の愚かさに、エルフリーデは笑うしかなかった。
「ふふふ……わたくしも愚か者だった、ということですわね……」
自分の呑気さに、エルフリーデは笑うことしか出来なかった。
やがて、最後まで立っていた騎士が膝を折ると、刺客たちは馬車を取り囲んだ。
「お嬢様!」
侍女がドアの前に立ちはだかるが、訓練された暗殺者の障害になるはずもない。ドアを開かれるとともに引きずり出され、地面に押さえつけられる。
「降りろ、エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢」
馬車の中に唯一人残ったエルフリーデに、刺客のリーダーらしき男が呼びかけた。
はぁ、と息を吐くと、エルフリーデはさっきまで張り付いていた自嘲の笑みを払い落とした。いつも彼女が浮かべている『エルフリーデ・ハイランド』の顔を──自信に満ち毅然とした表情を貼り直し、優雅で余裕ある仕草で馬車から降りた。
「お、お嬢様……」
倒れ伏した騎士たちからうめき声が上がった。
護衛たちは傷を負っていたが、命を失ったものはいないようだった。放っておけばその限りではないだろうが、ひとまず命の危機というわけではないらしい。
「安心しろ。あくまで痺れさせているだけだ。よほど運が悪くなければ、痺れが取れるまで死にはしないだろう」
「……卑劣な襲撃を仕掛けた割に、随分と甘い対応ですのね」
正面に立つ刺客に、エルフリーデは悠然と笑いながら皮肉を投げ放つ。
「これも依頼の一部なのでね」
刺客の男は、どこか愉快げな声で返答した。
「……ああ、なるほど。そういうことですの」
その返答を聞いて、エルフリーデは深く長い溜め息を吐いた。
「……殺す前に、わたくしを汚しておけとでも命じられたのかしら?」
「ほぅ? 噂に聞いていた以上に聡いようだ。さすがは国外から『ミランディアの最後の柱』と称される宰相の愛娘というところか」
エルフリーデの態度に、刺客のリーダーは話が早いとばかりに頷いた。
「すでに察しているようだが、我々の依頼内容は『エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢を疵物にした後で無惨に殺害しろ』というものだ」
「問答無用で殺した方が手っ取り早いでしょうに、なんとも煩瑣な方法を取るのですわね」
これから処女を散らされ、多数の男たちに強姦されたあとで殺されると告げられたエルフリーデだが、呆れたとばかりに首を振った。
「俺たちもそう思うが……貴族様には貴族様の思惑があるんだろう」
「そんな大したものではないでしょう」
単に殺すだけでも十分だろうに、わざわざ疵物にしてから殺すとは。少しでもハイランド侯爵家を貶める材料を増やしたいということなのだろう。
依頼主が誰かは知らないが、わざわざ竜の尾を踏んでタップダンスまで踊る真似をするとは。なんとも呆れた命知らずもいたものだ。
「あなたたちもご苦労なことですわね」
言いながら、エルフリーデはドレスの中に巧妙に隠されていた短剣を取り出した。
「ふむ? その小さな武器でどうするつもりだ?」
「どうする? 貴族の女性の短剣の使い方など知れたことでしょうに」
鞘を抜き放つと、エルフリーデはささやかな抜身の刃を自分の喉元へ押し当てた。
地面に倒れた護衛や侍女が悲鳴を上げる。
「誇りある死、か? 結構なことだが、貴様にそれが出来るかな?」
「わたくしとて映えあるハイランド公爵家の令嬢。覚悟は出来ておりますわ」
「どうかな」
刺客のリーダーはくくくっ、と小さく笑った。
「俺たちも随分と人の死に関わってきたが、死の覚悟を決めた奴なんて見たことがない。人が死ぬのに必要なのは覚悟じゃない。死に必要なのは『諦め』だ」
「…………」
「見たところ、貴様は諦めからもっとも遠いタイプだ。この国の腐った貴族には珍しい誇り高さがある。その誇り高さが諦めることを良しとしない。貴様の誇り高さは、死への諦めと正反対のものだ」
「……わたくしがそんなに生き汚い女に見えますの?」
「ああ」
ふ、と眼の前に居たはずの刺客の姿がかき消えた。
あっ、と思う間に、エルフリーデの腕は刺客によって掴み上げられる。
一瞬だけエルフリーデの死角に入った後に彼女の目前に現れた刺客は、掴んだ細い手首を軽く捻った。
エルフリーデは短く呻き、短剣はあっけなく彼女の手からこぼれ落ちる。
「くくく。頭は良くても所詮は小娘だな。この程度の言葉遊びで気を逸らされるとは」
「くぅ……こ、のっ」
小娘扱いされた──侮辱されたエルフリーデは、掴まれた右手首の痛みを忘れて左手を振り被る。だがその手も、刺客の手にあっさり掴まれてしまった。
「気の強いお嬢様だ。それでこそ、だがな」
刺客はいとも容易く、エルフリーデを地面に押し倒した。
両手を押さえられて男に伸し掛かられ、エルフリーデは怯懦の震えを必死に堪え、気丈にも刺客を睨み返す。
「本当に気が強い……やっぱり貴様に自決は無理だよ、エルフリーデ・ハイランド。貴様は最後まで諦めないタイプだ。首を掻っ切られるその瞬間まで、逆襲の機会を見つけようとする」
ぐっ、と刺客の膝が、エルフリーデの太ももの間に割り込んでくる。慌てて足を閉じて押せようにも、男の足は少女のやわな抵抗をものともせずに進み、まだ誰にも汚されていない乙女の秘所を無遠慮に小突いた。
「くっ、うぅ……」
屈辱に呻く侯爵令嬢。
刺客は愉しげに、くっくっく、と嗤った。
「依頼を受けた時は面倒だと思ったが……これはなかなか楽しめそうだ」
「お嬢様!」
主の危機に護衛の騎士たちが声を上げるが、残りの刺客たちに抑え込まれて、出来るのはそこまででしかなかった。
「しっかり押さえておけよ。そいつらには主である侯爵令嬢の晴れの舞台の目撃者になってもらわないとならないんだからな」
くっくっく、と笑いながら、刺客のリーダーが部下たちに命じる。
「どうせ終わったら作業現場から人を呼んでくる手筈でしょう? 護衛たちまで生かしておく必要があるんですか?」
「ないといえばないし、あるといえばある。依頼主は『出来るだけ惨めな目に合わせろ』と仰せだからな。部下たちに目撃されながら犯されるのは、誇り高い侯爵令嬢には耐え難いことだろう」
刺客たちの会話に、先程一瞬でも迷ったことを後悔するエルフリーデ。彼女を見下ろしながら、刺客のリーダーは「ああ、そうだ」と思い出したように忠告した。
「言っておくが、舌を噛むなんてのは止めた方がいい。舌を噛み千切って失血死したり窒息死するなんて、そうそう出来ることじゃない。中途半端に舌を傷付けるだけだぞ」
「く、うっ……!」
「貴様に出来るのは、大人しく処女を奪われて女になるのを受け入れることだけだ。エルフリーデ・ハイランド侯爵令嬢」
ぐっ、と足の付根を膝で押し上げられ、エルフリーデは漏れ出そうになる悲鳴を必死に抑えた。こんな連中に悲鳴を聞かせてやるものかという意地だったが、刺客たちはそうやって彼女が屈辱を押し殺す様子ですら、楽しい催し物のように眺めていた。
犯される。
今更ながらに、エルフリーデはその事実に眼の前が真っ暗になった。
貴族の子女たるもの、政略結婚が基本で、恋愛結婚などは稀。ましてや、エルフリーデは物心ついた時にはすでに第一王子との婚約が予定されており、初体験に対する甘い希望など持ってはいなかった。
……だが。
それでも、これは。
こんなのは……。
(……絶対に目にもの見せてやりますわ!)
もし……もし奇跡が起きて生き延びることが出来たら、自分をこんな目に合わせたヤツを絶対見つけて、自分以上の地獄を見せてやる!
自分を嘲り見下してきた連中全員を魔女の釜に投げ込んでやる!
あまりの悔しさと怒りが羞恥を押し殺す。エルフリーデは、壮絶な復讐を決意した。
「────あの~、取込み中すみません~」
そんな、彼女の怒りに満ちた昏い決意を吹き飛ばすように。
なんとも間の抜けた声によって、事態にストップがかけられた。
刺客も。
拘束された侍女や護衛たちも。
そしてもちろん、エルフリーデも。
全員の目が、間の抜けた声のした方向へ向かった。
「非常に気まずいんですけど、ここって何処なんですかね?」
そう言って音もなく森の中から姿を見せたのは、怪しい風体の青年だった。
格好こそ、何処にでもあるようなマントを羽織ってブーツを履いた旅人風なのだが、何故か全身がぐしょ濡れだった。黒い前髪がこれと言って特徴のない顔に張り付いて、顎からぽたぽたと水滴が滴っている。服を着たまま水浴びでもしたのだろうか?
はっきり言って、刺客たちよりも怪しい見た目だった。
町を歩いていたら確実に衛兵に呼び止められていただろう。
しかし、何より異様なのは、青年の静かさだった。
──足音が、ない。
森の中だから落ち葉も小枝もあるだろうに、ほとんど足音がしなかった。
ついでに言えば、気配もない。
この場の誰もが、彼が声を発して初めて存在に気付かされた。
斥候や暗殺者としての訓練を積んだだろう刺客たちですら、声が発せられる今の今まで気付きもしなかったのだ。
その静かさが異様な存在感となって、刺客たちの警戒心を刺激する。
「……何者だ?」
エルフリーデを取り押さえていた刺客のリーダーが、硬い声音で誰何する。
「それだよ、それ。俺は何者なんだろうな?」
「もう一度問う。貴様、何者だ?」
刺客たちが青年に対して構える。傷付いた護衛たちより、この得体の知れない青年の方が脅威と判断したのだ。リーダーの合図で、いつでも飛び掛かる体勢だった。
「──そうだなぁ」
相変わらず間の抜けた、自分に注がれる殺気に気付いていないみたいにぼんやりとした口調のまま、青年はボリボリと濡れた頭を掻いた。
「とりあえず、そうだなぁ……通りすがりの正義の味方、かねぇ?」
「やれ!」
リーダーの声が上がると同時に、刺客たちは一斉に短剣を放った。護衛の騎士たちを行動不能にした毒塗りの刃は、
──バサァ!
と広がったマントの裾に弾かれた。
これと言って何の変哲もない、ただのマントの一振りで、刺客たちの投擲は無効化されてしまう。
「刺ッ!」
次いで、五人の刺客が無言のまま、それぞれタイミングも位置取りもずらして襲いかかる。五人がそれぞれ失敗をフォローしあえる、完璧な連携攻撃のはずのそれを。
「やるんなら同時にやるべきだったな」
青年は一番最初に斬り掛かった刺客の腕を容易く掴むと、力任せに『振り回した』。
残り四人の刺客たちは、他ならぬ仲間の身体で打ち据えられて吹き飛ばされていく。一瞬遅れ、生身が発するとは思えない激しい打突音が周囲に響きわたる。
「あらら。もうこれは使えなさそうだな」
吹き飛ばされて木々に身体を打ち付けた四人も悲惨だが、一番悲惨だったのは振り回された最初の刺客だった。
仲間たちの短剣が身体に突き刺さり、青年に掴まれた右腕は『ぐにゃり』と二倍近くも延びきっていた。肩どころか腕全体の関節が外れ、それどころか骨そのものがグチャグチャになっているようだった。一瞬で絶大な荷重がかかり、靭帯もすべて断裂してるに違いない。当然、痛みのあまり失神し、生きているのが不思議な虫の息である。
ぽいっ。
と、青年は用済みになった刺客を放り投げた。
マントの下の体躯は、これと言って筋肉隆々という訳ではない。鍛えてはいるようだが、大の大人を小枝のように振り回せるようには見えない。もっとも、腕の筋肉だけで出来ることではないが。
あんな真似が出来るのは、筋肉達磨の豚鬼(オーク)か、破壊の化身である大鬼(オウガ)くらいだ。
平均的な体躯の人間が、楽々行えることではない。
『…………!』
刺客たちは慄然としていた。
彼らとて経験のある暗殺者だから、いまのが身体強化系の魔術によるものだとは察しが付く。察しが付くからこそ、眼の前で起こったことに戦慄せざるを得ない。
大人を振り回すほどの筋力を出しても、青年は平然としている。つまり、あれだけ強化した筋力に耐えられるだけ、骨格の強化もなされているということだ。それだけで、青年の並外れた魔力量を推し量ることが出来る。
あれほどの力を常時発動できるとは思えないが、僅かな間とはいえあれほどの出力と強度を発揮できる点だけでも、凡百の戦士とは一線を画す力量だ。
刺客たちは慎重に距離を取る。詰められたら一溜まりもないと誰もが理解していた。刺突を簡単に見切って掴む動体視力に、人間離れした膂力。一般人が人食い熊と相対するようなものだ。とてもではないが接近戦が出来る相手ではない。
じわじわと遠距離戦で削っていくのが得策──
「──ひぎゃっ!?」
そんな風に無言のうちに意思疎通し合った彼らの一人が、突然悲鳴を上げてひっくり返った。
ぎょっとして倒れた仲間を見てしまった刺客が、次いで新たな犠牲者となる。眼窩に何かが撃ち込まれ、目玉を爆ぜさせて断末魔もなく即死した。
「それは悪手だろ」
青年は、いつの間にか手の中に握っていたコインをじゃらじゃらと弄ぶと、まだ何が起こったのか分かっていない刺客の一人に対して腕を伸ばした。
──ヒュッ!
鋭い風切り音とともに青年の指から撃ち出されたコインが、刺客の脳天をぶち抜く。
綺麗なヘッドショットを食らった刺客はびくびくと身体を震わせた後、潰れるようにして地面に崩れ落ちる。
「あの世で獄卒にわたす駄賃に使ってくれ」
銀貨や銅貨をじゃらじゃら手の中で鳴らす青年は、すぅ、と残った刺客たちを眺め回した。
びくっ、と刺客たちが恐怖に身を震わせる。
「ひ、ひぃ……っ!?」
慌てて逃げようと踵を返した刺客の膝の裏にコインが突き刺さり、さらに両肩が穿たれ、地面に倒れて芋虫のようにのたうち回った。
破れかぶれで短刀を投げ放った刺客は、投げたナイフが銅貨で弾かれ、自分の左目に突き刺さる銀貨が最後に見る光景となった。
そこからは、あっという間だった。
連携もなにも出来ず、刺客たちはひとり、またひとりと、指弾で撃ち込まれる銀貨や銅貨の餌食になっていく。身体強化を利用した指の力で撃ち出しているのだろうが、目を見張る威力だった。撃ち込まれる方は目にも止まらぬコインの飛来に逃げ惑うことしか出来ない。
青年の言った通り、距離を取った時点で悪手だった。まだ五人がやられた直後に一斉に躍りかかっていた方が、青年を手古摺らせることが出来たかもしれない。
それから数を三十も数え終わる頃には、二十人はいた刺客たちは、半分が事切れ、半分は手足を撃ち抜かれて地面に転がり呻いていた。奇襲とはいえ騎士たちを鮮やかに無力化した手腕は手練れの暗殺者のそれだったが、たった一人の正体不明の青年に、見ていて哀れになるほど一方的に制圧されてしまっていた。
「おっと……銀貨と銅貨は品切れか」
ズボンのポケットを引っ張り出しても何も無いのを見て、青年が溜め息を漏らす。
「やれやれ……どうにかして手持ちを増やさないと……」
景気の悪い顔でぶつぶつと独り言を零していた青年だが、ひょい、と顔を上げる。彼の視線の先では、エルフリーデを立たせて首に短刀を突き付ける、ただ一人残った刺客のリーダーが後退っていた。
「う、動くな! 動くとこの女を──」
「動くな。お前がちょっとでも動いてそのお嬢様に掠り傷でも付けた瞬間、お前を殺す」
青年を脅そうとした刺客のリーダーは、逆に脅されて言葉を失った。
「だいたい、俺に人質なんて通じると思うのか? 俺はたまたま通りがかっただけで、そのお嬢様の名前だって知らないんだぞ?」
青年は不思議そうに小首を傾げる。その拍子に、濡れた髪から水滴が滴った。
──上手い。
刺客に両手首を掴まれ拘束されたエルフリーデは、青年の態度に密かに感心した。
予想外の発言で相手の機先を制し、続けざまに質問を投げかけることで、相手を自分のペースに巻き込もうとしている。
案の定、刺客のリーダーは「き、貴様……!」と、青年との会話に引きずり込まれる。
「通りがかりでオレの部下たちを皆殺しにしたのか!?」
「聞こえが悪いな。まだ生きてる奴もいるだろ?」
「同じことだ! もうそいつ等は使い物にならない! 貴様のせいでとんだ大損だ!」
「だったら俺を殺そうとするなよ。撃っていいのは撃たれる覚悟のあるヤツだけだ! って偉い人が……あれ? 偉い人って誰だっけ? どっかの皇帝陛下だった気がするんだけど……あんた、知ってる?」
「知るか! 聞いたこともない!」
のらりくらりとした青年の態度に、刺客はどんどん口論に引き摺り込まれていく。視界が狭まり、青年に注意が集中する。
「…………」
青年がちらっ、とエルフリーデに視線を向けた瞬間、彼女はすぐに決断した。
すっかりエルフリーデから注意を外した刺客の爪先を、ヒールの踵で思いっきり踏む。
完全な不意打ちに、刺客は驚きの声を上げた。
「き、きさ──」
そんな隙を、この青年が見逃すはずがなかった。
エルフリーデの顔の横を金色の輝きが掠め、刺客の眉間を撃ち抜く。
ビクンッ、と刺客の身体が痙攣する。
すぐに刺客の身体から力が失われ、手から零れた短剣が地面に落ちるより早く、刺客の身体がどさりと崩れ落ちた。
「やれやれ。金貨はちともったいなかったかな……あの世の駄賃には豪勢すぎる」
青年がやれやれと首を振っていた。
エルフリーデは背後を向き、仰向けになった刺客のリーダーの骸を見下ろした。
「……確かに、過ぎたお駄賃ですわね。地獄でお金は使えませんもの」
自分を犯そうとしていた男の無様な末路に溜飲を下げ、エルフリーデは青年へ向き直る。何故かびしょ濡れの上、常人離れした戦闘力を持つ怪しい人物だが、この青年がいなければ自分の人生は確実に終わっていた。
「──危ないところを助けていただき感謝いたしますわ。わたくしはミランディア王国宰相たるグラード・ハイランド侯爵の娘、エルフリーデ・ハイランドと申します」
侯爵令嬢らしい、洗練されたカーテシーを見せるエルフリーデ。
「よろしければ、あなたのお名前をお聞かせ願いますか? 恩人の名前を知らなければ、お礼をするのも一苦労です」
「あー……それなんだよな、それ」
名を問われ、何故か青年は困ったように溜め息を漏らした。
「……それがよく分からなくてなぁ」
「分からない……? ご自身の名前ではありませんこと?」
「それなんだけど……どうも俺は、いわゆる記憶喪失ってヤツらしくて……」
困ったように頭を掻きながら、青年は「うーん……」と首を捻る。
「………………カイト」
うんうんと唸っていた青年は、やがてポツリと名前らしき単語を呟いた。
「カイト……ああ、そうだ。俺の名前はカイトだ。それだけは思い出せる。それ以外はさっぱりだけどな」
困ったなぁと苦笑する青年──カイトは、名前以外思い出せないと言っている割に、悲壮感じみたものは皆無だった。
「カイト……カイト様、ですね。お救いいただき感謝しますわ、カイト様。ハイランド侯爵家の名にかけて、この御恩は決して忘れません。何かわたくしに出来ることがあれば、遠慮なく仰ってください」
改めてカイトに礼を述べるエルフリーデ。
毅然として背筋を伸ばして、ともすれば礼をしているのではなく命令しているかの如き態度だが、カイトはそんな彼女の様子を気にした様子もなく、むしろ楽しそうな顔で笑い返した。
「なら、さっそく頼んでいいか?」
「はい。何をでしょう?」
「そろそろ限界だから、面倒よろしく」
そう言うやいなや、カイトはばたりと仰向けに倒れた。
慌てたエルフリーデが駆け寄ると、倒れた青年から、
──ぐぅぅうううう……。
と、盛大な腹の音が上がる。
空腹と疲労で目を回したらしい。
「……なんともマイペースな方ですわね」
一方的に現れて、一方的に救って、一方的に気絶して。
助けてもらったとはいえ、なんとも相手を振り回す青年だと苦笑いした。
「お嬢様……」
刺客が一掃され、拘束を解かれた侍女と護衛たちが近寄ってくる。護衛の騎士たちはまだ薬の効果が残っているのかややふらついているが、命の危険はなさそうだった。
「ご苦労ですが、誰か工事現場に行って人手を借りてきなさい。この刺客たちから聞かなければならないことがたくさんありますわ。逃げられないようしっかり拘束するように」
半数は死体だが、半数はまだ辛うじて生きている。手足の関節や健を傷付けられてまともに動けなさそうだが、口はまだしっかり動くだろう。
「わたくしは王都の屋敷に戻りますわ。さすがに侯爵令嬢、それも第一王子の婚約者に対しての襲撃事件です。関係各所に報告と調整が要ります」
「かしこまりました、お嬢様。……それで、そちらの方は……」
侍女が何とも言い難い表情になる。その視線の先に居るのは、今も腹の虫を鳴らしながらぐぅぐぅ眠る怪しい青年である。
他の部下たちも、いわく言い難い顔で青年を見る。助けられたのは事実だが、どう見ても怪しい。ぐしょ濡れな見た目も怪しければ、記憶喪失という話も胡散臭い。
だが、何よりもその戦闘力だ。極端な話、彼がその気になれば、この場の全員を皆殺しに出来る。それだけの力を見せ付けられている。
危機を救ってくれた恩人ではあるが、客観的には『正体不明の危険人物』なのだ。できれば放っておきたいというのが、彼らの偽らざる気持ちであろう。
「もちろん、我が屋敷にお連れいたしますわ。仮にもわたくしの処女と命を救っていただいた恩人ですもの。馬車にお乗せしなさい。屋敷でも客人として丁重に扱うように」
「……かしこまりました」
エルフリーデの指示を受け、部下たちが動き出す。
「さて……これからどうなりますかしら……」
この後の面倒事に思いを馳せ、エルフリーデは面倒くさそうに「はぁ」と嘆息するのだった。