性伏王【斐川紫睡編】

著者: 舞条弦

電子版配信日:2025/05/23

電子版定価:880円(税込)

淫魔に屈した斐川真琴を救うため、忍装束を身に纏い、
性伏王・福弥が展開する結界に潜入したくノ一・斐川紫睡。
その前に立ちはだかるのは、淫魔の眷属と化した真琴の姿。
「ずっと一緒だ。ずっとわたしが、お前を護ってやるからな」
幼き日々に真琴と交わした約束を胸に、悲痛な戦いに挑む紫睡だが……
一途で健気な、気高き想いとともに、紫睡は淫らな闇に呑み込まれていく。
舞条弦の超人気書き下ろしダークファンタジー、哀しき淫の絆編!

目次

プロローグ

第一章 胎動する《闇》

第二章 奴隷指導

第三章 便女に為り下がったくノ一

第四章 全穴性伏

第五章 ショータイム

第六章 平和な世界

エピローグ

本編の一部を立読み







プロローグ



 鬱蒼とした森の奥に、斐川紫睡は立っていた。
 闇を溶かしたような忍装束を纏う紫睡は、頭巾を外して何度か首を振る。布の中に収まっていた癖のない長髪が、ふわりと毛先を躍らせて宙を舞う。ほんのり汗ばんだ髪は、満月の光を吸って艶やかな光沢を散らした。
(……相も変わらず酷い匂いだな)
 紫睡は面具を外して息を吐く。周囲には顔が歪むような強い酸臭が漂っていた。辺りに散乱する鬼の死骸から、薄汚い妖力と独特の死臭が漏れだしているのだ。
(ひとまずは、雑魚どもはこれで全部か。……あとは、親玉一匹)
 積み重なった鬼の死骸に視線を遣る。その奥から、巨大な緑色の物体がはみ出ていた。手だ。一本で紫睡の首以上の太さを誇る鬼の指が、遺体の隙間から覗いているのだ。
「まだ息があるんだろう、碌鬼(ロクオニ)。それとも、可愛い部下の亡骸に紛れたまま、死んだフリを続けるか? 貴様にも大妖としての誇りがあるのだろう。――であれば、来い」
 紫睡は囁くように言う。よく澄んだ声が、邪念渦巻く森の中で静かに響いた。
「グ、オオオ……狼闇(ロウアン)ッ、狼闇ッ、狼闇――ッ!」
 遺骸の山から地鳴りのような咆哮が轟く。紫睡は腰に携えた短刀を抜いた。禍々しくも妖艶な赤黒い刃が、官能的とでも言うべき淫靡な光沢を闇に散らす。
「オオオオオオオ――ッ」
 部下の亡骸を跳ね除けながら、碌鬼が身体を起こす。紫睡は鬼の巨大な体躯を見上げた。岩山のような頑強な肉体からは、六本の腕が伸びている。
「傷が癒えているな。部下どもの血肉を啜ったか」
「赦サン、赦サン、赦サン! 潰ス、潰ス、潰スッッッ」
 会話する気はないらしい。それも当然だろう。住処を破壊され、総勢二百にも及ぶ部下を、たった一人の人間に皆殺しにされたのだから。
「オオオオオオッ!」
 碌鬼は四本の腕を振りあげ、一気に拳を下ろす。隕石が降り注ぐような光景だった。しかし紫睡が動じることはない。面具を着けなおし、そっと屈む。
「赦せとは言わん。ただ、死ね」
 拳の雨に向かって、紫睡は素早く四度、短刀を振るった。
「オ……?」
 鬼の腕がピタッと宙で止まる。何が起きたのか判らぬ様子で、碌鬼は訝るような声を漏らした。紫睡は抜いた刀を腰に戻す。キン、と納刀の音が響いた瞬間、四椀が一斉に血飛沫を噴きあげ、ボトボトと地面に落ちる。
「グゴオオオオオッ! ウデッ、ウデがッ、オオオオオッ!」
「〈天垂(あまだれ)〉という。刀身に纏った水で対象を斬り裂く術だ」
「ま、待デッ、もう戦えなッ――」
「そしてこの技は、〈泡嗣(あわつぎ)〉という」
 再び短刀を振るう。刃から散る水の飛沫が、弾丸となって鬼の下半身を貫いた。苦痛に呻く碌鬼は、大樹を薙ぎ倒しながらのたうち回る。
「オアアアアッ、アアッ、アアアアアッ!」
「見苦しい。先までの威勢はどうした。早く自慢の腕で私を圧殺してみろ。急がないと、自慢の六本腕が――ああ、どうする? 残り一本になったぞ?」
「アアアアッ」
「次は脚だ。そろそろ大人しくしろ。目障りで仕方がない」
 静かに刃を振り続ける。そのたび、鬼の身体は切断されていく。腕は一本になり、脚は膝下から失われ、碌鬼は倒れた。紫睡は鬼の身体に乗り、太い首に刃を突きたてる。
「み、見逃しデ……ッ、ゆ、赦シデ……ッ」
「貴様には大切な人がいるか?」
「ァ……ェ……タイセツ……?」
「私にはいる。いや……いた。彼女は生涯護り抜くと誓った主であり、肩を預ける友人であり、妹のように愛おしい少女だった。だが、彼女は貴様ら妖魔の手に堕ちた。あの子は弱かったわけじゃない。私より遥かに才能があり、強い子だった。ただ、優しすぎたんだ。それがきっと敗因なのだろう。だが、私はそれを責めたいとは思わないんだ。だってそうだろう。悪いのは優しい彼女ではない。その優しさにつけ込む、貴様ら外道なのだから」
「ナ、ナニ、オレ、知らなイッ、お前の妹、知らないッ」
「妹じゃない。妹のように愛おしいと言ったんだ。グズめ」
 碌鬼の首に刃を突き刺す。厚い首の皮だ。刀身すべてを埋めこんでも致命傷には至らない。実際、碌鬼は「グギ……ッ」と微かに呻くだけだった。
「先ほど、水飛沫でお前の身体を貫いただろう。〈泡嗣〉と言う技だ。あれは刀身に纏う水を打ちだす術でな。欠点と言えば、狙いが分散して定まりにくいということだ。私たち《闇雨吏(くろうり)》が扱う術にしては、少し大雑把なところがある。だが――」
「アッ、アッ……な、なん、ダ……ナ、ナニ、するツモリダ」
「静かに。貴様の声を聞くと虫唾が奔るんだ」
 紫睡は表情を変えることなく、全神経を刃先に集中させる。
「さて、話の続きだ。刃に付着する水を弾丸のように拡散する術を、この状況で使うとどうなると思う?」
「ぁ……ェ、ァ……あ……」
 碌鬼の眼球が恐怖と緊張でぎょろぎょろと蠢く。鬼の身体を貫く威力の水飛沫を、内側から炸裂させるとどうなるか――その答えが判ったのだろう。
「ま、待――ッ」
「死ね」
 水を炸裂させる。ブシュッと音がした。碌鬼の筋肉が硬直し、巨体がビクンッと跳ねる。鬼の目がぐるんと裏返った。達成感はない。紫睡は動かなくなった碌鬼の上で、溜息を吐いた。


第一章 胎動する《闇》



「――失礼いたします」
 障子戸を開け、紫睡は部屋に入る。畳の敷き詰められた部屋の奥に、座椅子へ腰掛ける斐川謳華の姿があった。深い藍色の髪が、薄闇の中で艶めいていた。
「用事は何かしら、狼闇(ロウアン)。斐川家の【裏】である《闇雨吏(くろうり)》は、こう何度も【表】の屋敷に来るものではないわよ」
「……申し訳ございません。しかし、頭首さまにお願い申しあげたいことが」
「淫魔の件なら返事は変わらないわ。アレは【表】で対処する事柄よ。あなたの出る幕はない。以上。ここから先は無駄話よ。任務に戻りなさい」
「な……お、お待ちください。どうか、私に淫魔討滅の任を。結界内部に潜入し、必ずや真琴さまをお救いします。どうか、許可を」
 紫睡は切実に訴える。両手を床につき、深々と首を垂れて、懇願する。今まで何度も、何十回も、そうしてきたように。
「もう、あの動画が公開されて何か月も経つのですよ。その間、いったい何人の術師を淫魔の結界内に送りこんだのですか。いずれも任務は失敗し、その大半が結界から戻らぬと聞きます。戻って来た者たちの精神異常にも、対処法が見つからぬままなのでしょう。他の勢力にも協力を仰ぐべきです。戦闘なら淦羅(あから)家、呪いへの対処なら曜染(ようせん)に――」
「狼闇」
 静かに謳華の声が響く。紫睡は腋に汗が滲むほどの緊張を感じて、顔を伏せたまま硬直した。
「碌鬼討滅、ご苦労さま。次の任務まで待機しておきなさい」
 話はこれで終わりだとばかりに謳華は言い放つ。実の娘を救いたいとは思わないのですか――そう叫びたいのをこらえながら、紫睡は拳を震わせた。

「いかがでしたか、狼闇さま」
 屋敷を出た直後だった。宵闇から二人の女がぬぅっと姿を見せる。紫睡よりも一回り年上の女性は、名を闇鯉(アンリ)という。副官として補佐を務める忍だ。
「狼闇さまの表情を見れば判るでしょ。また失敗っすよ、失敗。ねえ、狼闇さま?」
 もう一人――忍には相応しくない快活な声で喋る少女は、名を闇猫(アンビョウ)という。小柄な体躯と自由気ままな性格は、まさに名の通り猫のようだ。
「……闇猫。お頭に失礼でしょう。口を慎みなさい」
「いいんだ、闇鯉。ネコの言う通り、結果は一緒だ。頭首さまは意固地になっておられる。取りつく島もない。このままでは埒が明かないだろう」
「では、どうするのです」
「……そうだな。どうしようか」
 紫睡が呟くと闇猫は「なんすかソレー」とけらけら笑った。やはり闇を生きる者には相応しくないな、と思う。だが紫睡は彼女のことを好いていた。張り詰めていた緊張の糸が緩む。
「でも確かに、頭首さまの気持ちも判るっすよ。真琴さまは、斐川家でも歴代最強と言われたお方でしょう? その真琴さまが敗れた相手ともなれば、慎重になるのも当然っす」
「だが、今のままでは何も変わらない。戦力が摩耗するばかりだ」
「だからと言って、私たちにできることは何も」
「……それを今から考える。何を言われても、真琴のことは諦められない」
 可憐な少女の姿を思い浮かべる。美しい藍色の髪。穢れなき雪色の肌。サファイヤのような眼。そして何より、誰よりも清らかな心を持つ少女だった。
(そんな優しい彼女が、どうしてあんな目に遭わなくてはならないんだ……)
 数か月前――全世界に突如として配信された動画を思いだす。そこに映っていたのは、街中で犬型の式神と交尾する真琴の姿だった。恥水を撒き散らし、聞いたことのない声で喘ぎ狂う真琴の姿は、今も脳裏に焼きついて離れない。
(淫魔……真琴を犯すだけではなく、その痴態を公開して嘲笑う外道め)
 淫魔への憎悪を抱きながら、紫睡は屋敷の反対側までぐるりと回る。庭の端にぽつんと蔵が設置されていた。中に入り、仕掛けをいくつか弄ると、部屋の隅に階段が出現した。
 地下に繋がる階段を覗きこむ。酷く陰気な気配が充満していた。闇の中から「あー、あー」と呻き声が聞こえて、暗澹とした気分を抱く。
「……またなんか、気配が多くなってないっすか。ていうか、くさ……」
「……ああ。それに淫気が濃い……。面具を着けろ。男香を身体に撒け」
 女の体臭を誤魔化す薬品を身体に散らし、地下室を進む。明かりをつけてすぐ、紫睡は息を詰めた。牢屋の中に、三十人ほどの男たちがいるのだ。
「以前はまだ、この半数以下だったはずですが」
「……頭首さまは、あれから更に術師を送りこんだんだ。その結果がこの有様だよ。屈強な斐川の者たちが、淫魔の呪いに髄まで冒されている」
 壁にかかっている蝋燭で男らを照らす。その全員が瞳を弧状に細め、何やらニタニタと笑みを浮かべながら、股間から伸びた逸物を擦り続けている。床中が精液だらけで酷い匂いだ。特殊な面具で嗅覚を保護しているが、それでも鼻の粘膜にこびりつく感覚が拭えない。
「……およそ、四百キロ平方メートル」
 闇鯉がぽつりと呟く。瞳に憂いの情が滲んでいた。
「理汪学園を中心に観測された、淫魔の構築する結界の面積です。市全体を覆う巨大な結界内部には、強い淫気が充満していると聞きます。その淫気が原因か、あるいは何かしらの呪いを浴びたのか……戻って来た者たちは皆、こうして廃人同然の色狂いと化している……」
「うへぇ」と闇猫が苦い表情を浮かべる。「この人たち、普通に自分より強い人ばっかっすよ。あ、あの人! 頭首さまの弟さまじゃないっすか?」
「……ああ。斐川家序列四位のお方だ」
 厳格で実直。秩序と礼節を重んじる男だ。その斐川家指折りの剣士は今、全裸で一心不乱に竿を扱き続けている。見るに耐えない。
「……だが、これでも彼らはまだマシなほうだ」
「ええ。心配なのは、帰ってこなかった者たちです。およそ二十七名の女性術師――真琴さまと、アヤメら《奉繊花(ほうせんか)》の四名を含めれば三十二名。彼女たちは今も、消息不明のまま、結界の中に囚われている」
「それって……皆さん、真琴さまと同じ目に遭ってるってことっすよね?」
 闇猫の発言に二人は沈黙する。恐らく――いや、間違いなく、捕えられた女性術師は淫魔の支配を受けているだろう。真琴の魔術耐性があっても敵わぬ相手なのだ。並の術師ではまず太刀打ちできない。
「――狼闇さま」
 闇鯉の声にハッと顔を上げる。男の一人が紫睡たちをじーっと見ていた。その瞳がぎらりと輝きを増しているのに気づく。「オ、オ、ン、ナナ、ナ……?」と、男は涎塗れの口で呟いた。
「オンナァッ、女っ、オッ、オッ、オッ、オッ!」「女ッ、オオッ、オオッ」「オオオオッ、ンナッ、オンナ、ナッ、ナッ!」
「――ッ、出るぞッ!」
 一斉に男らが咆哮し、牢の中から腕を伸ばしてくる。三人は慌てて地下室の入り口を閉め、蔵にまで戻った。防音加工が施されているのにもかかわらず、地下から呻き声が滲みだしていた。
「うへぇ……酷いっすね。前は香水振ってれば襲ってこなかったのに」
「症状が悪化しているようですね。このまま放置すれば、どうなるか……」
 状況は一刻を争うらしい。結界の外に出た彼らがこの有様では、今も結界内部で淫気を浴び続けている女術師たちはどうなっているのか……。
「……やはり、このままではだめだ。私が行く」
「ですが、それは」
「判っている。頭首さまの御意思に歯向かう行為だ。《闇雨吏》にとって命令違反は死罪。それでも仲間を見捨てることはできん」
 それ以外に手はない。紫睡は自分の決断を肯定するように、そっと頷く。すぐ傍で「はあ」と闇猫が溜息を吐いた。少女は呆れた様子で首を横に振る。
「あーあ。じゃあ、ここでお別れっすか」
「……ああ、ネコよ。今まで世話になったな。これからは、闇鯉の部下として働いてくれ」
「何を仰るのです、狼闇さま。こんな手間のかかる野良猫、面倒を見るのはごめんですよ」
 今度は闇鯉が嘆息した。すぐに、闇猫がムッとした表情を浮かべる。
「自分もお断りっす。闇鯉さん、融通利かないんすもん」
「そう言われても……私はもう、お前たちの主ではなくなるんだぞ」
「それでいいっすよ。自分ももう、闇猫とかいう小難しい名前は捨てちゃうんで」
 ニヤッと闇猫が笑う。悪戯っぽい表情を見て、紫睡は彼女の思惑を悟る。
「斐川家、血生臭い話も多くて好きじゃなかったんすよねー」
「……だが、それではお前まで離反することになる。そうなればもう」
「いいっすよ、別に。ねえ、闇鯉さん?」
「ええ。もとより私が仕える主は一人だけですから」
 副官はきっぱりと言い放つ。狼闇としての紫睡を鍛えあげた闇鯉は、斐川家にとっても古株の一人だ。そんな彼女が迷わず自分を選んでくれている事実に胸が熱くなる。
「……本来ならば、二人を止めるべきなんだろうが……嬉しいよ。ありがとう」
「あれー、お頭、泣きそうじゃないっすか?」
「こら、闇猫。口がすぎますよ」
「いいんだ。もう主と従者ではない。我々は対等な関係だ。志と運命を共にする仲間なんだ。軽口などいくら言っても構わん。肩を並べ、戦い、友を救おう」
 紫睡の言葉に闇猫はニィッと笑う。闇鯉もまた、色っぽいホクロのある口元を緩めた。胸どころか、紫睡は目頭まで熱くなるのを感じる。今にも涙が溢れそうだ。
「にしても、狼闇サマ。よくそんな、照れ臭い言葉しらふで言えるっすね」
「それに関しては同意です。狼闇さまといると、時々むず痒くなります」
「なっ――お、お前たち、そんなことを思っていたのかッ?」
 二人にからかわれ、紫睡は薄闇でも判るほど雪肌を紅潮させる。今度は目頭や胸だけでなく、首筋まで熱くなる。そして不意に思った。いつかまた、真琴ともこうして笑い合える日がくるだろうか……。
(……いや、くる。必ず、あの子を救ってみせる……)
 汗ばむ手で、腰に携えた短刀を握る。謳華の意思に逆らうと思うと恐怖を抱かずにはいられない。だが、彼女だって娘の身を案じているはずだ。そうであってほしいと願いながら、紫睡はそっと、深呼吸を繰り返した。

 それから、幾日か過ぎた頃――。
 紫睡たちは河原を訪れていた。辺りには温かな日差しが燦々と降り注ぎ、穏やかに流れる川が銀の光沢を返している。近くにはキャッチボールに興じる親子の姿があった。草花は風を追うように揺れて、柔らかな匂いを振り撒く。
「こうして見ると、やっぱ馬鹿デカイっすねぇ」
 川から顔を出している闇猫が空を見上げる。紫睡と闇鯉もまた、途方もなく巨大な結界を前に息を呑む。流石は四百キロ平方メートル級の結界だ。
「怖気づいたか? 今ならまだ引き返せるぞ」
「まさか。自分も覚悟決めてるっすよ。って言っても、危なかったらトンズラこきますけど」
「まったく、任務を前に士気の下がるようなことを……」
「構わないさ。我々はもう部隊ではないし、これは任務でもないからな。――と、長話は無用だ。装束で探知も認知もされないとは言え、結界周辺にいれば斐川の監視に見つかるやもしれん。ここからは手筈通りに。……行くぞ」
 紫睡の言葉に二人――闇猫と闇鯉は頷いた。同時に川の中へと身を沈め、泳いで結界に侵入する。結界に物理的な干渉はない。
(よし……探知に掛かる気配はないな……水中を移動すれば問題なさそうだ)
 三人が身に着けているのは《闇雨吏》の忍装束『籠濡(かごぬれ)』だ。相手からの認識を阻害し、程度の差はあるが魔術探知も無効化する。結界内部への侵入は成功だ。
『シーちゃん』
(――ッ)
 突如、脳裏に少女の声が響く。川の中、紫睡は遠くに人影を見た。水中に少女がいる。水流に合わせて揺れる白い小袖。蒼色の袴。美しい藍色の髪。そして右手に握られているのは――斐川家に伝わる二大法倶の一振り、【香倶之湖之壬(かぐのこのみ)】であった。
(真琴……なのか? だが、どうして――)
 思考が途切れる。足首に水が絡みついてきたのだ。大蛇のような水圧の塊が骨を軋ませてくる。紫睡は短刀【渦赦禍埜女殺(かしゃかのめそぎ)】を腰から抜いて、絡みつく水を斬り裂いた。
(闇猫、闇鯉ッ)
 二人のほうへ視線を遣る。水の蛇に五体を捉えられた二人が、じたばたと水中で四肢を暴れさせていた。紫睡の行動は迅速だ。仲間に絡みつく水を斬り裂き、二人を抱えて水中から顔を出す。そのまま三人は川面に立った。
「た、助かったァッ! 斐川が溺れるとか、洒落にならないっすッ」
「今の術は……。まさか……」
「……ああ。どうやら、最悪の想定が当たったらしい」
 川の中からぬぅ……と少女が浮かびあがってくる。それは神秘的にも、不気味な光景にも見えた。人間が水中から顔を出せば、飛沫が散り、激しく水面が泡立つはずだ。しかし少女の周囲にそれは起きない。ただ音もなく静かに、川面に昇り、立つ。
「久しぶりだね、シーちゃん」
 真琴は首を傾け、柔らかく微笑む。少しも濡れていない藍色の髪が、雪のような肌の上でさらりと揺れた。紫睡が昔プレゼントした髪飾りが、太陽の光を反射して煌めいていた。
(……動揺するな。こうなる予感はあっただろう? 真琴が……私たちの敵として立ちはだかることも、最初から想定していたことだ。……冷静になれ)
 静かに呼吸を整えつつ、周囲の気配を探る。結界の外と同じ、穏やかな昼下がりの光景が広がっていた。先ほど結界外にいた少年が、ボールを追いかけて結界の内側に入る。しかし変わった様子はない。何事もなく、結界の外へと戻っていく。不気味なくらいの平穏だ。
(他には誰もいない……ここにいる術師は、真琴だけか)
「……一つ、確認したい。お前は今、何者なんだ」
「何者? 哲学的な話? いいね、私、そういう話好きだな」
「真琴」
「ふふ、冗談だってば。だから、そんな怖い顔をしないで。昔みたいに笑ってよ。ほら、にぃ」
 真琴は自分の両頬に人差指を当て、口角を上げる。その笑顔が酷くいびつに見えて、紫睡はゾッと背筋が粟立つのを感じた。もはや問答を交わすまでもない。
 真琴は――あちら側の人間に、為ったのだ。
(……淫魔の精神汚染……最悪だ……くそ)
 表情も振る舞いも、明らかに以前の真琴とは違う。何より決定的なのは衣装だ。
 清廉と潔白の象徴たる小袖は大胆に布面積が減らされ、横乳が丸出しになっている。袴の丈も随分と短く、風が吹くたび下着が――それも煽情的な濃紺のティーバックが露わになっていた。しかし、真琴が羞恥する様子はない。
(……だが、見方を変えれば幸運とも言える。ここは結界の境界線に近い場所だ。真琴を連れ帰るという目標を達成するには最高の場所だろう)
 紫睡は腰の短刀に手を添える。この穢れた刀を真琴に振るいたくはないが、四の五の言ってはいられない。相手は斐川家最強の術師なのだから。
「それにしても驚いたな。その姿、《闇雨吏》だよね? シーちゃんが隊長の狼闇だったんだ? あんなに何度も会ってたのに、全然判らなかった」
「気に病むことはない。私たちの装束には認識阻害の術が掛けられている。寧ろ今、私を狼闇だと認識できている事実を恐ろしく思う。どうやら……また強くなったようだな」
「凄いでしょ。私、頑張ったの。目標ができたから、もっと強くなりたいんだ」
「目標?」
「福弥さまを性伏王にする。そのために、私は私を捧げる」
 真琴が静かに、淀みなく呟く。以前と変わらぬ優しく澄んだ声だ。なのに、どうしてだろう。その言葉が呪詛のように禍々しく感じるのは。
「福弥……誰だ、それは」
「――あ。そっか。福弥さまを知らないんだ? えっとね、福弥さまは――」
 真琴はそこで言葉を区切る。「いや、いいや」と、少女は首を横に振った。
「立ち話はやめない? 早く私、シーちゃんとヤりたいの。私の悦びを、幸福を、この世界の尊さを教えたいの」
「……そうか。つまるところ、説得は無意味なんだな?」
「逆に訊いていい? シーちゃん、黙って福弥さまの性奴隷になってくれる?」
「却下、だな」
「だよね。だったら思う存分、ヤりあおう」
 真琴の笑みが深くなる。紫睡は汗ばむ掌で刀を握り、乾いた唇を唾で湿らせる。破廉恥な装いに身を包む少女もまた、薙刀【香倶之湖之壬】をそっと構える。
「相手は斐川家最強だ。殺す気で行くぞ。陣形は甲の――……おい、どうした?」
 返事がない。ちらりと背後に視線を遣る。二人の姿は消えていた。紫睡はハッと真琴に視線を戻す。真琴の背後に、巨大な水の塊が二つ、出現していた。ぷかぷかと宙に浮く球体の中に、気を失った二人の姿があった。
「ごめんね。邪魔だから、二人はもう始末しちゃった。あ、そうだ。私ね、前から言ってみたかったことがあるの。えー、こほん。――部下の命が惜しければ、武器を置いて投降しなさい。そうすれば、命だけは助けてやる。――なんて」
 真琴は芝居がかった台詞を口にして、屈託なく笑う。その仕草も素振りも、屋敷の庭で遊んでいた頃のようで――それがまた、紫睡の心を酷くざわつかせた。
「もう、いい。どうせお前は人質を殺さない。それに、彼女らも死を覚悟の上だ」
「部下が死んでもいいんだ?」
「そう言っているだろう」
「嘘吐き。私と一緒で、嘘が下手なんだから」
 ごぼぼぼッと音がする。水中で二人が悶えていた。身を捩る彼女らを見て胸が痛む。だが……いや、だからこそ。自分が容易に屈するわけにはいかない。紫睡は――刃を抜いた。
「〈泡嗣〉」
 水に刃を浸し素早く横に振るう。無数の水滴が弾丸となって真琴を襲う。少女は「わあ」とはしゃいだ声をあげ、薙刀でトンと水面を叩いた。それだけで五メートルにも及ぶ水の壁が出現し、紫睡の攻撃をすべて防ぎきる。
(ワンモーションでこれほどの……だが、それは百も承知――ッ)
 紫睡は水面を蹴る。女忍者は一瞬で水の壁に迫り、斬り裂いた。同時に、斬り裂いたばかりの水を刃に纏わせ、真琴に向かって振るう。
「〈天垂〉――ッ」
 水の刃が真琴を襲う。少女が焦る様子はない。薙刀を掲げ、笑顔で言った。
「〈天垂〉」
 真琴は水を纏わせた薙刀を振り下ろす。刹那――少女の放った水の刃が、紫睡の〈天垂〉を容易に斬り裂き、そのまま眼前に迫った。
(――ッ、速――ッ)
 身体を投げるように水刃を躱す。すぐに体勢を整え、短刀を構えた。そして眼前の光景に目を見開く。大勢の女型式神が、自分を取り囲んでいた。
〈蒼女(ソウジョ)〉。真琴の得意とする基礎的な式神術だ。基礎的とは言え、普通の術者は多くとも三体までしか同時に生成できない。――が、水で形作られたソレは、目視できるだけでも三十体を超えていた。
「……末恐ろしい才能だな。以前にも増して洗練されている」
「〈蒼女〉だけじゃないよ。空を見上げて。〈蒼女〉の足元も見て? 水の中だって、たくさん式神を這わせてる。私ね、今なら二百体の式神を同時に扱えるの」
 二百。その途方もない数に頭がくらくらした。嘘ではないだろう。空を舞う無数の鳥型式神〈媽守(ボモリ)〉。今にも紫睡へ食らいつかんと唸り声をあげる、犬型式神〈嗤犬(シケン)〉。水の中にも蛇型の式神がうようよと泳いでいる。
「降参して、シーちゃん。勝ち目なんてないってば」
「却下、だな」
「だよね」
 すッ――と、真琴の姿が式神の陰に隠れる。少女を見失うと同時に〈蒼女〉が一斉に紫睡へ迫った。一体一体が水の薙刀を振るってくる。
(手足を削いででも私を戦闘不能にする気だな……。残虐で冷徹で、以前の真琴なら絶対にありえない戦略だ。この子はもう――いや、今はよせ。集中しろ)
 四方から迫る薙刀を寸前で躱しながら、幾度も刃を振り抜いていく。短刀に触れた式神は一撃で真二つになり、崩れた。足元に迫る犬と蛇を跳躍で避けると、今度は鳥型の式神が襲い掛かってくる。その翼は高圧水流の刃だ。触れれば肉体の欠損は免れないだろう。
(――が、それは翼に限った話だ。加速したこいつらの動きは直線的で、タイミングさえ掴めば対処は難しくない)
 空中で身体を捻る。突進を躱すと同時、鳥の背に足を乗せ、もう一度跳躍した。式神の群れに突っこみ、短刀を振るい続ける。赤黒い刃がぎらりと輝きを返すたび、式神が霧散し、水の飛沫となって川に溶けていった。
「うわあ、凄いね。飛んでる〈媽守〉の背中に乗る人、初めて見た。百キロ以上の速度で飛ぶ鳥に乗れる? シーちゃん凄すぎ」
 真琴の声が聞こえてくる。だが、彼女がどこにいるのかまでは捉えられない。川に着地した紫睡は、次々と迫る〈蒼女〉をいなしつつ、足元に群がる〈嗤犬〉を薙ぎ払う。川の中から迫る蛇式神に捕われぬよう跳躍を繰り返しながら、式神たちを斬り裂き続ける。
「あーあ、攻撃が全部掻き消されちゃう」「【渦赦禍埜女殺】……水を斬り裂く概念の付与された、血塗られた宝刀かあ」「本当に私の術を全部斬れちゃうんだね」「式神じゃ、太刀打ちできないね」「じゃあ、量より質といきますか」
(……なんだ? 真琴の声が、いくつも聞こえて――なッ。なんだ、あれは)
 紫睡を囲むようにして、四人の真琴が遠くに立っていた。少女は薙刀を川に突きたて、両手をピタリと重ね合わせる。その周囲に無数の霊符が舞っていた。目視できるほどに濃い魔力の粒子が、荘厳な輝きを放って渦巻いていた。
(この術は――まずいッ、アレがくる――ッ)
「あッ」
 四人の真琴に気を取られた刹那、足首に水が絡みつく。同時に、八体の〈蒼女〉が紫睡に抱き着いた。殺傷能力はない。時間を掛ければ振り解くのも難しくはないだろう。だが彼女との戦闘においては、この僅かな拘束が命取りになる。
「「「「淫術――〈秦女盧海尽罪(はためのうつつみ)〉」」」」
 四人の真琴が同時に呟く。瞬間――少女の足元から巨大な水の柱が二つずつ出現した。合計八つにも及ぶ魔術の奔流は、火花が散りそうなほどの激しさで渦巻いていた。
(〈海尽罪(うつつみ)〉は一度に二本の水流で対象を呑み砕く技だぞ……。自分を四人に増やして、同時に八本も出現させたのか……? こんな馬鹿な――)
「どうか瀕死になってね、シーちゃん」
 真琴の声が響く。巨大な掘削機のように先端を尖らせた水流が、一斉に紫睡へと降り注ぐ。紫睡は大きく息を吸い、身に着けた忍装束に魔力を這わせる。『籠濡』が膨らみ、鎖帷子を残して、纏わりつく〈蒼女〉ごと爆散した。
(焦るな。慌てるな。どれほど強大でも、コイツに斬れない水はない)
 自由を取り戻す。身体を屈め、短刀に指を添えて目を伏せる。龍神の如き水流の群れが頭上に迫る。八本の柱は互いを呑みあうように絡みつき、そして――。
「〈皐冥波吹(こうめいはぶき)〉」
 紫睡の声が轟音に混じって静かに響く。刹那、数十メートルの激流が、一刀のもとに両断された。大渦は術式を完全に断ち切られ、術としての機能を失う。ただの水になったソレは、大雨と化して川に降り注いだ。
「……驚いた。なに、今の。速すぎて見えなかったんだけど」
「一度に八回、同じ場所を斬り、斬撃を重ねた。慣れればそう難しくない」
「一度に八回! 流石はシーちゃん。うれしいなあ。相変わらずシーちゃんは最強で、かっこいいんだね。私が憧れた、あの頃の素敵なシーちゃんのままだ」
「真琴こそ、やはり凄いな。〈海尽罪〉の同時発動とは。しかも、そのために自分を複製するとは……。巫女のお前に分身されては、忍の面目が立たないぞ」
 会話しつつ隙をうかがう。四体のうち一体が本物のはずだ。同時に攻撃する手段はある。本体に当たっても真琴ならば致命傷を避けられるだろう。加減すればこちらがやられる。紫睡は再び斬撃を放つために、短刀を納めて神経を研いでいく。
「自分を増やすやりかた、教えてあげようか? 簡単だよ。こうするの」
「――ッ」
 身体に柔らかな感触が伝わる。真琴が背後から抱き着いてきたのだ。耳朶に息遣いを感じてゾクリとする。乳房が背中に当たっていた。タイツ地同然の薄い鎖帷子越しに、少女の熱を感じて動揺する。この子を、倒さねば。そう判っているのに、刀を抜くのを躊躇う。
「斬るの? 私のこと、その呪われた刀で殺すの?」
「それが役目だもんね。【渦赦禍埜女殺】は、処刑するための道具だもんね」
「斐川家を裏切った者を殺すための妖刀だもんね」
 次々と裸の真琴が現れ、紫睡に近づいてくる。こんなときなのに――紫睡は少女たちに見惚れてしまう。白い肌。滑らかな髪。穢れを感じさせぬ媚乳。引き締まった腹。官能的な曲線を描く太腿。そして、美しい無毛の花園――。
(な……んだ。どうしてこれほど、この子の裸身に、意識を奪われ――)
 紫睡はハッとする。少女の腹に、淡く輝く桃色の紋様が見えた。
 淫紋だ。これは、淫術だ。自分は淫魔の力で、魅入られて――。
「〈沼喰魅(ぬぐらみ)〉」
 少女が呟く。どろりと、真琴の身体が崩れた。黒い汚泥と化した少女が身体へ纏わりついてくる。粘着質な泥に呑まれた身体はピクリとも動かせない。
「【渦赦禍埜女殺】の能力は水を斬り裂くこと。その概念は絶対で、水を操る私にとっては天敵。だけど、斬る動作ができなければ、その効果は適用されない」
「泥でも関係ない……これは水の術だ。今に、私の刀で」
「万が一斬れても意味はないよ。それは私の最大魔力の九割以上を注ぎこんでる、自動再生魔術なの。再生上限は五千万回。五千万回、斬られるかな?」
「ごせ――ンムぐッ」
 首を這いあがる泥が口を塞ぐ。全身を黒い泥に覆われた紫睡は、完全にその動きを止めた。
(息が……できない。動け、ない……)
 コンクリートで固められているようだ。紫睡は意識が遠退くのを堪えながら、懸命に指を動かし、短刀の刃へ触れる。そして胸の中で、そっと呟いた。
(【渦赦禍埜女殺】――解放)
 血塗られた刃を握りこむ。掌に痛みが奔り、血が滲む。血液を吸った刀身が泥の中で輝きを放った。傷口がひし形状に拡がり、泥が身体の内側へと流れこんでいく。湯を溜めた風呂の栓を抜いたときのように――泥は渦巻きながら、紫睡の体内へと吸収されていった。
「……なにそれ」
 トン……と、紫睡は水面に着地する。呆然と立ち尽くす真琴の姿があった。式神もなく、【香倶之湖之壬】に貼付されていた無数の霊符も消えていた。
「……この妖刀は、水を斬り裂く刀ではない。水を吸収し、術者に還元する刀だ。お前が魔術に込めた膨大な魔力は今、私の中を巡っている。この意味が判るか? 終わりだ、真琴。お前の負けだ」
 真琴は何も言わなかった。意味深な笑みを浮かべ、はぁと息を吐く。その溜息がどういう意味合いを持つのか紫睡には判らない。諦観、だろうか。何にせよ、紫睡のやることは一つだ。
「悪いが拘束させてもらう。抵抗はするなよ。お前に手荒な真似はしたくない」
「抵抗なんてしないよ。やることはやった。私の出番はこれでおしまいだもの」
「……出番?」
 含みのある言葉に引っ掛かる。いや、心理的な駆け引きに応じている暇はない。二人の容態も心配だ。一刻も早く引きあげようと、紫睡は一歩前に踏みだした。
「……あれ?」
 瞬間、ぐらりと身体が傾く。紫苑は水面に膝をついた。水上歩行の術が不安定なのか、身体が沈み始める。視界が、ぐにゃぐにゃと歪んでいた。
(魔力不足……? いや、ありえない。今の私は……真琴の魔力を得ているんだぞ?)
 不足どころか、今の日本において最大の魔力量と言ってもいいだろう。身体に損傷はなく、精神状態にも異変はない。にもかかわらず、女体は強烈な酩酊感に襲われていた。
「どうやら作戦は成功したらしいな」
 女の声がする。紫睡は顔を上げ、真琴の隣に立つ女に目を凝らした。
「だ、誰……だ。貴様は……私は今、どうなっている。何をした……」
「私はメノウ。淫魔の女王だ。言っておくが、私は何もしていないぞ。お前の自業自得だ」
「メノウ……」
 女の名を繰り返す。淫魔の女王メノウ――。真琴を辱め、数十名にも及ぶ男性術師を廃人に変え、女性術師を拉致している諸悪の根源。この妖魔の所為で、すべてが狂ったのだ。
(ころ……す。こいつだけは、私が……今、この手で……ッ)
 引き攣る太腿に活をいれ、紫睡は懸命に身を起こす。だが焦点は合わず、握力も入らない。痺れた指先からは今にも短刀が滑り落ちそうだ。
「まだ動けるのか。いや、たいしたものだ。普通の人間なら、淫気中毒でとっくに気を遣っているだろうに」
「淫気……中毒……?」
「お前は今、真琴の魔力を大量に吸収しただろう。それで中毒を起こしているんだ」
(な……に。何を、言っているんだ……聞き取れない……意味が、判らない)
 メノウの台詞がぐわんぐわんと脳内に響く。頭を抱え、再び両膝を川面につく。紅潮した肌から汗が噴きだし、半開きの唇から涎が垂れていた。
「こいつは既に洗礼を受けた私の眷属。全身を巡る魔力は、淫魔が扱う性のエネルギー――煩力へと変換されている。煩力とは、空気中を漂う淫気の原液のようなものだ。それを直接、大量に吸収したんだ。人の身で耐えられるはずもない。煩力の多量摂取が引き起こす淫気中毒、それが、お前の身に起きていることだ」
「ああ……や、やめてくれ。もう、喋らないで、くれ。気持ちが、悪い」
「訊いたのはお前だろうに。我儘な女だな」
 くく……ッとメノウは嗤う。嘲りを孕んだ声を浴びると、背筋の辺りがぞわぞわした。産毛の逆立つ感覚に眩暈がする。気がつくと、目と鼻の先にメノウの姿があった。
「ようこそ楽園へ。共に分かち合おう。淫らな悦びを……な」
 脳をくすぐるような蠱惑的な声音に、紫睡の意識はぐらりと揺れる。まずいと思ったときにはもう遅い。思考が、闇に融けていった。

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