クォーターで眉目秀麗、完璧主義者の諜報員・有栖川理沙のもとへ、
同僚の中年諜報員・安藤から構成員の性欲を解消する「慰安係」の指名が……
最高の恋人に恵まれ、完全無欠の人生を送ってきた理沙は、
自身とつり合わない醜男への性的任務に憤りを隠せない。
ただの仕事だと割り切り、27歳の女体を差し出していくが、
老獪な安藤による初めてのアナル責めでおぞましき快楽が……
大人気「絶対NTR」連作短編シリーズ、待望の第四弾!
プロローグ 有栖川理沙
第一話 ヴァージンアナル
第二話 勝利と敗北
最終話 完全無欠な人生
エピローグ 食物連鎖
本編の一部を立読み
プロローグ 有栖川理沙
日本がスパイ大国と評されるようになって長い時が経った。各国の諜報員が大手を振って我が国で活動をしているというのだ。
しかしそれを呆けて見届けているだけの楽観主義者だけではない。水際対策として結成された組織が存在する。
しかしそれは表に出ることは無かった。
テレビやインターネットのニュースになることは無く、ただひたすらに陰から日本を支える者たち。
けして称えられることは無い。時にはテロを未然に防ぎ、殉職したとしても事故死として処理される。
彼らを動かすことができるのは官房長官からの勅命のみ。
いつしか彼らは『九課』と呼ばれるようになった。
警察や自衛隊の上層部でもその存在を知る者は一握りである。
何名から為る組織なのか。どういった活動を行っているのか。それらは全て厚いベールに包まれている。
噂では幼少の頃から特殊な訓練を受け、さながら現代の忍びのような英才教育の結晶であるとも言われていた。
今日もまたどこかで彼らが暗躍している。
紫雲学園。
都内に存在するその学校に属する生徒の親はいずれも一般人とはかけ離れていた。大企業の社長、一流芸能人等である。
そして今年からは、やんごとなき家柄の子息が入学するということで教師の中では緊張感が漂っていた。もしその生徒に対する問題が起これば、学校関係者全員が首になるかもしれないという噂はあながち大袈裟ではない。
ただでさえ厳重なセキュリティは更に設備と人員が追加された。
そして入学式を迎える。
「どこかものものしい雰囲気ですね」
ベテランの教師が同僚である有栖川理沙に声を掛けた。有栖川理沙はまだ二十七歳と紫雲学園では若輩に入る。その年齢でここで教鞭を奮うことは異例とも言えた。
緩く曲線を描く金色の長い髪は何も手を加えていない。その癖っ毛も色も地毛である。
彼女はクォーターでイギリス人の祖母の血を引いていた。肌も透き通るように白く、瞳の輝きようは宝石を連想させる。日本人離れした美貌ではあるが、親にトップアイドルなどを持つ生徒も多いこの紫雲学園では、そこまで異質な存在ではなかった。そもそも外国人の教師と生徒も少なくない。
むしろ彼女は謙虚で礼儀正しく、自己主張の少ない教師だというのが同僚からの評価である。
そんな有栖川理沙の裏の顔は九課から配属されている諜報員だ。件の生徒が紫雲学園に入学することが決まった二年前から教師として潜入している。
主な任務は校内での護衛及び、生徒に近づく勢力の調査。その身分故に、取り入ろうとする人間は多い。その中には日本や社会に敵対する組織を背景に持つ者もいるかもしれない。
(ようやく仕事の時間ね)
待ちわびていたと言わんばかりに彼女は心の中で舌なめずりをした。
第一話 ヴァージンアナル
有栖川の任務が本格的に始動してから半年が経った。今のところ大きな動きは見られない。
護衛対象の生徒も平穏な学校生活を送っている。
「何事も起こらずに拍子抜けですかな?」
彼女にそう声を掛けるのは同僚の教師であり、そして同じく九課に属する安藤治。一見するとただの小太りの中年である。
「まさか」
「そのまま気を抜かないようにお願いしますよ」
たまたま二人きりになった廊下でそんな会話を交わした。
遠ざかっていく安藤の背中を一瞥もせずに有栖川は歩きだす。
(あたしが気を抜く? そんなヘマをやらかすわけがないでしょう)
外面は控えめな人間を演じてはいるが、有栖川の本質は自信家であった。とはいえ自惚れは一切なく、その気質に見合った力量を確かに有している。
彼女は若くして九課の特別諜報員の位を冠していた。それは国家の中枢に関わるような任務を与えられる階級である。彼女の年齢でそこまで上り詰めたのは前例が無かった。
十代の頃から欧米での任務経験を積んだ彼女の評価は極めて高い。
(どいつもこいつも鈍臭い)
諜報員としてほぼ完成された彼女にとっては、平和な日本での仕事はどこか緊張感に欠ける。少なくともある日突然街中で射殺されたりすることは無い。
それでも彼女の集中は途切れない。
常にアンテナを張ることが癖となっている。それは呼吸と同様に習慣を超えて生態となっていた。
そんな彼女の保護、または観察対象となった生徒の周囲に実際のところ動きは無い。
しかし楽観視もしていない。
いつも通りに任務終了の時まで常に安定したパフォーマンスを続ける。
そんな彼女の元に一つの雑音が届いた。
九課からのメール。
慰安任務の指名が有ったことの知らせ。
慰安任務。
九課に在籍する男性構成員をハニートラップから守る為の措置。重要な職務についている男性構成員は、迂闊に女を抱くことができない。
性欲を発散させる時が最も情報漏洩の危険性が高い瞬間である。
それを未然に防ぐ為に、課内に於いて指名制でのフリーセックスが認められる場合がある。
有栖川は顔色には出さずとも、心の中で苛立ちを覚えながらため息をついた。
本来ならば拒否権は無い。
しかし彼女は特別諜報員。
単なる諜報員からの指名は拒否できた。
特別諜報員という役職は九課内でも秘匿される為、相手はそれを知らずに指名してきたのである。
(身の程知らずな男)
有栖川はそれを拒否する旨を九課に送る。あとは九課がそれとなく建前を用意して慰安任務が成立しなかったことを相手に知らせるだけだ。
しかし有栖川は怒りが収まらない。
特別諜報員の権限を使い指名してきた相手の素性を調べる。そしてその素行や経歴に疵が無いかを徹底的に調べると、監査部門に送り付けた。
(あたしに触れようなんて愚かな真似をした罰よ。一生昇進できないようにしてあげる)
今までも有栖川を慰安任務に指名してきた男をこうして返り討ちにするのが彼女の常であった。
(ちょろいちょろい。雑魚が)
心の中でどこの馬の骨ともわからない男を見下す。
その度に有栖川はある種の恍惚を覚えた。
九課内に於いて性処理の道具にされる女という立場。その逆境を容易く跳ねのけられる自身の優れた能力に陶然とさえした。
彼女はけして過剰な自信に溺れているわけではない。その傲慢さに見合った実力を持っている。
そしてその技能の殆どはたゆまぬ努力で培ってきた。彼女はただの天才ではなく、地道に塗り固めた強い地盤を持つ。それゆえの強大な自尊心と自負。
放課後になり保護対象が下校すると九課としての仕事は終わる。あくまで彼女の任務は校内での保護及び監視である。校外の領域はまた別の諜報員の管轄となる。
教師としても有能な彼女は早くに仕事を片付けるとプライべートの時間に移行する。
今晩は恋人と外で夕食を取る予定があった。
「お待たせ」
駅前で待っていたスーツ姿の男に駆け寄ると、そっと腕を巻き付かせる。相手は三十代半ばのスマートな男性であった。理知的なのは容姿だけではなく、その言動全てが紳士然としている。
そして何より彼女が彼に惹かれたのはその明晰な頭脳と行動力である。若くしてベンチャー企業の社長であった。
この男と結ばれれば自分はより完璧な人間になれる。そしてより優れた遺伝子を残せる。
その際には九課の仕事も続ける予定だ。今の仕事は自分の才能をいかんなく発揮できる。力あるものはそれを世の為に奮うべきだと彼女は考えていた。
(我ながら一分の隙もない人生プラン)
街ではたくさんの人間とすれ違う。その全てが無益で生産性の無い人間に見えた。社会に貢献する重要な仕事をこなし、そして近い将来には理想の家庭を築く。この世の全てを掌の上で転がしているような万能感すら覚えた。
そんな有栖川の元に、再び慰安任務の指名が舞い降りる。
翌朝、寝起きにそのメールを確認した時にはいつも通りの面倒臭さを覚えるだけではなかった。
なんとその指名元は同じ紫雲学園で働く安藤治であった。
今まで慰安任務を拒否してきた男性諜報員とは直接対面したことが無い。しかし安藤は頻繁に会話も交わす。
だからこそ有栖川は酷い憤りを感じた。
まず自分を性的な目で見ていたこと。
それについては嫌悪感はあるものの、許すことにする。自分が男性にとって如何に魅力的な性的対象であるかは自覚している。
彼女にとって問題だったのは、安藤が彼自身であまりに不釣り合いだと思わなかったのかという怒りだった。
前髪が後退しかかった浅黒い肌の、小太りの中年。
客観的に見て安藤と有栖川では豚と真珠である。
(慇懃無礼にも程があるでしょ)
思わず心拍数が乱れそうになった。
そんな自分を律して、拒絶の旨を九課に送る。
そして安藤に対して強い敵対心を覚えた。
何としても更迭してやる。
(いや、それでは生ぬるいわ……もっと屈辱的で、圧倒的な敗北感を与えないと。あんな完全には程遠い人間があたしを抱けるなんて不相応な夢を描いた罰を下さないと気が済まないわ)
有栖川は全身が燃え滾るような憤怒を覚えながらも、それを一旦頭の片隅に整理した。
彼女がまず優先すべきは任務。
無礼千万な同僚への対応など二の次三の次。
私情で仕事に支障をきたすようでは、優秀な人間とは言えない。
身支度を整えて出勤する。
朝の職員室には安藤が既に着席していた。有栖川が入室した際に、遠くの机から自分に視線を寄越したのを感じる。生理的嫌悪感を抱くが、有栖川がそれから目を逸らすような可愛げのある女ではない。
真っ向から冷たい眼差しをぶつける。無言の弾劾。
人畜無害の同僚を装っておきながら、隙あらば自分を性処理の道具にしようと企んでいたことに彼女のプライドが傷つけられた気さえした。
彼女の完璧な人生に於いて、その道にはどんな矮小な障害も許すことはできない。徹底的に排除してやると改めて誓う。
さてどうしてやろうかと考えていると、朝礼が終わると安藤の方から声を掛けてきた。
「おはようございます」
何と厚顔無恥な男なのだろうと有栖川が呆れる。
とはいえ感情に身を任せるのは彼女の美徳に反する。ヒステリックに喚きたてて物事を解決しようとする女など、有栖川が最も軽蔑する手合いである。
「おはようございます」
怒りをコントロールして挨拶を返した。
「調子はどうですか?」
いけしゃあしゃあと朗らかに世間話をしてくる。
(まだ慰安任務が却下されたことを知らないのだろう。抱く前の品定めといったところかしら。下賤な男のすることね)
「おかげ様で。万事順調です」
「それは良かった。それでどうでしょう。今日の勤務後、親睦を深める為にも一杯引っかけていきませんか」
何と白々しい誘いかと有栖川は眩暈すら覚えそうになった。
しかし彼女はこれを嫌悪感に任せて唾棄するような人並みの女ではない。虎穴に侵入して虎子を得ようとする。
有栖川は一つの決意を固めた。
この安藤という男を徹底的に打ち負かす。
その為の情報収集として懐に飛び込むことも厭わない。
彼女は何よりも重要視するのは、自分が優れた人間であることを証明し続けることであった。
品の良い柔らかい笑顔を浮かべる。
「わかりました。お誘いいただいてありがとうございます」
「おお。ではお店はこちらで用意しておきますので。それでは退勤後にまた」
去っていく安藤の背中に対して心の中で悪態をつく。
(狸おやじが)
自分を慰安係に指名したことを死ぬまで後悔する程、完膚なきまでに叩き潰してやると冷たい激昂を胸に潜ませた。
そしてそれは一旦仕舞い込む。
今は仕事の時間である。
彼女は公私混同をして任務をおろそかにはしない。そんな諜報員は三流もいいところだ。
粛々と教師の仮面を被ると、己の責務を全うする。
そしてその日も特筆すべき出来事は無く放課後を迎えた。
そして事務作業を終えて退勤すると安藤が指定した料亭に向かった。九課御用達の密談にはもってこいの個室が用意される店である。
二人の前に料理と酒が運ばれた。
おしぼりで顔を拭く安藤を前に、有栖川は心の中で爪を研いでいる。さてどうやってこいつを狩るかと思考を巡らせた。自身が食物連鎖の頂点である捕食者であることを愚か者に示さなければならない。
自分が特別諜報員だと明かせば話は早いが、基本的には機密情報である。それを九課内の人間に知られたところで罰則は無い。それでもできる限り自身の情報は切り出したくはなかった。それは諜報員として当然の姿勢である。
「どうぞどうぞ。箸をつけてください」
安藤は如何にも人の良さそうな中年を思わせる言動を取る。しかしその裏では公権力を使い女を抱こうとしている。
そのこと自体に有栖川は何とも思わない。この世界は裏表を使いこなせるのが前提だし、慰安係についても合理的なシステムである。
彼女が許せないのは、自分が舐められていること。
安藤とは同僚として職場を共にしているが、特筆すべき点は見当たらない。そんな凡庸な人間に抱けると判断されたことに腹が立つ。
ヒエラルキーというものを思い知らせて、ひれ伏させたい。
(それにしても呑気ね。やっぱり慰安任務が却下されたことをまだ知らないのかしら)
まずは様子をうかがおうとしていたら、思わぬ不意打ちを喰らう。
「有栖川さんを慰安係に指名させていただいた件ですがね」
安藤は懐石料理の小鉢に盛られた里芋の煮つけを口に運びながらそう言った。
まさかこんなにも無防備に切り出してくるとは思ってもない。しかしその程度で動揺する有栖川ではなかった。
「ええ。聞き及んでおります」
(向こうからインファイトを仕掛けてくるなら話は早い)
有栖川も澄まし汁に品よく口をつける。
「以前からその仕事ぶりに感銘を受けておりました。是非お近づきになれればと思い」
「そうですか」
「聡明な女性に惹かれるのは男の性です」
「いえ、私などまだまだ未熟で」
「不快に思われてなければ良いのですが」
安藤は饒舌だった。
彼が有栖川を褒め称える言葉を並べれば並べるほどに彼女は滑稽に感じる。
(その指名が却下されたと知った時、どんなほえ面を見せるのか楽しみで仕方ないわ)
「いえ。これも九課の人間としての務めですから。
無力で従順な小娘を演じつつも、心の中で安藤を嘲笑う。
精々恥を掻けばいいのだと優越感に浸った。
(これから職場では二度と自分に軽々しく話しかけれない程に気まずくなるでしょうね)
その様子を想像すると有栖川は恍惚を覚える。
誰にも負けない。
誰にも劣らない。
どんな理不尽にも屈することが無い。
なんと完成された人間なのだろうと、自分自身に陶酔すら覚える。彼女のそれは単なる自己性愛パーソナリティとは違う。確かに裏付けされた能力と実績があった。
そんな彼女がいつだって望むのは圧倒的な勝利。
今すぐにでも自分には慰安任務が適用されない種明かしをして、安藤が羞恥と敗北に歪む顔を見たい。
そんな高揚を抑えつつも、それとなく伏線を用意してあげた。
「とはいえ慰安任務が成立しない場合も時折あるそうですね」
「そうですね。例外は何事にも存在します」
安藤の視線が自分の身体を舐め回しているのに気づく。吐き気すら催すが、それもまた安藤の失意を大きくさせると思うと耐えられた。
有栖川は余裕であった。何も心配していない。こんな男に身を任す必要などない。
「そろそろ九課から連絡が来ているかもしれません。確認してみましょう」
安藤が携帯電話を取り出して、その画面を見る。
有栖川は安藤が落胆する瞬間を見られるかもしれないと期待した。
しかし事態は思わぬ方向へと進む。
安藤の口から思いもよらぬ言葉が発せられた。
「ああ、慰安任務が承認されてますね。あとは日時の決定を待つだけです」
有栖川は我が耳を疑う。
思わず言葉を失った。
まず彼女の頭に浮かんだのは安藤の見間違い。そうに違いない。しかしその可能性は即否定される。
安藤がわざわざ携帯の画面を自分に突きつけてきた。
有栖川の視力は良い。顔を近づけなくとも鮮明に文字が読み取れる。確かにそれは九課からのメッセージで、安藤が要請した有栖川との慰安任務を認可する旨を伝えていた。
彼女の思考は困惑を極める。
(そんな馬鹿な……あり得ない。どうして……)
有栖川は自身の携帯を取り出して九課からのメッセージをチェックした。するとやはり慰安任務が成立した旨を知らせる文言が届いている。
しかし皮肉にも、明晰な頭脳は瞬時に一つの可能性を検索した。
「……まさか」
その答え合わせをするように安藤が微笑む。紳士的で穏やかな表情だった。しかし有栖川の背筋が凍る。
「特別諜報員の方でも、同等以上の人間からの指名は拒否できませんよ。有栖川特別諜報員殿」
彼女は息を呑む。
まず自分の役職を知られていること。
そして安藤も少なくとも自分と同じく特別諜報員だということ。
その二つの事実は、彼女から地面を失わせて落下するような感覚に陥らせる。
特別諜報員は九課に両手で数えるほども居ないと聞いていた。そして安藤の仕事の職務や仕事ぶりを観察する限りでは、特別優秀には見えなかった。
それはつまり、安藤が自分よりも数段上の諜報員であることの証左である。能ある鷹は爪を隠す。
自分は安藤の能力を見誤っていたのだ。
そこにはけして心の隙や、先入観による過小評価などは無かった。そんなものに左右されるようでは特別諜報員にはなれない。
つまり有栖川は、純粋に諜報員としての実力で負けたのだ。
「動揺しておられる様子ですね。しかしそれを表面上には出さない。お若いのに訓練が行き届いておられる」
有栖川は奥歯を噛みしめて、安藤を睨みつけたいという衝動に駆られる。しかし一流の諜報員としての性が、無意識にそれらを律した。
「貴女ほどの優秀な人間なら、今回の件も己の糧にできますよ。そう気を落とさないでください。まぁ私のようなうだつの上がらない男に強制的に抱かれるのは、貴女のような若く美しい女性にとっては納得がいかないでしょうが」
有栖川の優秀性は張りぼてではない。この逆境に於いて思考と心は極めて冷静だった。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい。どうぞ」
「私を慰安係に指名したのは、本当にただの性処理が目的ですか?」
「随分と直球ですね」
「仲間内で化かしあいをしても意味が無いでしょう?」
「確かにその通りです。足の引っ張り合いなど愚の骨頂です。有栖川さんの問いに対する答えですが、イエスです。私が単純に貴女を抱きたいと願ったからですよ。この年でも性欲は衰えないものでね。困ったものです」
有栖川の見立てではおそらく安藤の年齢は五〇前後といったところだろう。それほど上背の無い固太りで丸顔の、どこにでも居る中年から壮年に股を掛ける男性である。
す、と有栖川の心から様々な負の感情が落ち葉のように散っては舞って落ちていった。
敗北感に打ちのめされている暇などない。自分は常に勝者でなければならない。
そんな彼女に宿るのは、冷たく鋭い覚悟と決意。
「……了解しました。慰安任務、承ります」
静かにそう言った。
「よろしくお願いします」
安藤は人畜無害な笑顔を一切崩さない。そして有栖川に食事を勧める。
「さぁさぁ。折角のご馳走が冷めてしまいますよ」
中途半端に能力とプライドが高く、高飛車なだけの人間ならばここで席を立っていただろう。
しかし有栖川は生半可な完璧主義者ではない。
何としても安藤を引きずり落とす。この敗北感を拭うにはそれしか選択肢は無い。
その為にはまず敵意を悟られてはならない。
従順を装い、自分は無力な小娘だと相手に認識させる。
本来ならば発狂したくなるほどの憤怒であった。しかし有栖川は一時の感情に任せることはしない。
全ては最終的に自分が勝利する為。
「お酌させていただきます」
「おやおや。ありがとうございます」
まずは相手の懐に入る。
その後も無難な会話をして解散となった。
そして帰宅するや否や、彼女はその怒りを露わにする。高級マンションの扉を閉めるとまずは大きく深呼吸をした。その表情は鬼のよう。壁を蹴り飛ばしてやろうかと考えたが、自身にも痛みが伴うだけで合理的な行動ではないと判断。彼女は好物である卵かけご飯をかきこむように平らげた。
それで一旦気持ちを落ち着かせる。
理不尽を呪ったりはしない。
それは凡人のすること。
勝利への道は自分の手で切り拓ける。
何をすべきかだけを考えた。
プロローグ 有栖川理沙
日本がスパイ大国と評されるようになって長い時が経った。各国の諜報員が大手を振って我が国で活動をしているというのだ。
しかしそれを呆けて見届けているだけの楽観主義者だけではない。水際対策として結成された組織が存在する。
しかしそれは表に出ることは無かった。
テレビやインターネットのニュースになることは無く、ただひたすらに陰から日本を支える者たち。
けして称えられることは無い。時にはテロを未然に防ぎ、殉職したとしても事故死として処理される。
彼らを動かすことができるのは官房長官からの勅命のみ。
いつしか彼らは『九課』と呼ばれるようになった。
警察や自衛隊の上層部でもその存在を知る者は一握りである。
何名から為る組織なのか。どういった活動を行っているのか。それらは全て厚いベールに包まれている。
噂では幼少の頃から特殊な訓練を受け、さながら現代の忍びのような英才教育の結晶であるとも言われていた。
今日もまたどこかで彼らが暗躍している。
紫雲学園。
都内に存在するその学校に属する生徒の親はいずれも一般人とはかけ離れていた。大企業の社長、一流芸能人等である。
そして今年からは、やんごとなき家柄の子息が入学するということで教師の中では緊張感が漂っていた。もしその生徒に対する問題が起これば、学校関係者全員が首になるかもしれないという噂はあながち大袈裟ではない。
ただでさえ厳重なセキュリティは更に設備と人員が追加された。
そして入学式を迎える。
「どこかものものしい雰囲気ですね」
ベテランの教師が同僚である有栖川理沙に声を掛けた。有栖川理沙はまだ二十七歳と紫雲学園では若輩に入る。その年齢でここで教鞭を奮うことは異例とも言えた。
緩く曲線を描く金色の長い髪は何も手を加えていない。その癖っ毛も色も地毛である。
彼女はクォーターでイギリス人の祖母の血を引いていた。肌も透き通るように白く、瞳の輝きようは宝石を連想させる。日本人離れした美貌ではあるが、親にトップアイドルなどを持つ生徒も多いこの紫雲学園では、そこまで異質な存在ではなかった。そもそも外国人の教師と生徒も少なくない。
むしろ彼女は謙虚で礼儀正しく、自己主張の少ない教師だというのが同僚からの評価である。
そんな有栖川理沙の裏の顔は九課から配属されている諜報員だ。件の生徒が紫雲学園に入学することが決まった二年前から教師として潜入している。
主な任務は校内での護衛及び、生徒に近づく勢力の調査。その身分故に、取り入ろうとする人間は多い。その中には日本や社会に敵対する組織を背景に持つ者もいるかもしれない。
(ようやく仕事の時間ね)
待ちわびていたと言わんばかりに彼女は心の中で舌なめずりをした。
第一話 ヴァージンアナル
有栖川の任務が本格的に始動してから半年が経った。今のところ大きな動きは見られない。
護衛対象の生徒も平穏な学校生活を送っている。
「何事も起こらずに拍子抜けですかな?」
彼女にそう声を掛けるのは同僚の教師であり、そして同じく九課に属する安藤治。一見するとただの小太りの中年である。
「まさか」
「そのまま気を抜かないようにお願いしますよ」
たまたま二人きりになった廊下でそんな会話を交わした。
遠ざかっていく安藤の背中を一瞥もせずに有栖川は歩きだす。
(あたしが気を抜く? そんなヘマをやらかすわけがないでしょう)
外面は控えめな人間を演じてはいるが、有栖川の本質は自信家であった。とはいえ自惚れは一切なく、その気質に見合った力量を確かに有している。
彼女は若くして九課の特別諜報員の位を冠していた。それは国家の中枢に関わるような任務を与えられる階級である。彼女の年齢でそこまで上り詰めたのは前例が無かった。
十代の頃から欧米での任務経験を積んだ彼女の評価は極めて高い。
(どいつもこいつも鈍臭い)
諜報員としてほぼ完成された彼女にとっては、平和な日本での仕事はどこか緊張感に欠ける。少なくともある日突然街中で射殺されたりすることは無い。
それでも彼女の集中は途切れない。
常にアンテナを張ることが癖となっている。それは呼吸と同様に習慣を超えて生態となっていた。
そんな彼女の保護、または観察対象となった生徒の周囲に実際のところ動きは無い。
しかし楽観視もしていない。
いつも通りに任務終了の時まで常に安定したパフォーマンスを続ける。
そんな彼女の元に一つの雑音が届いた。
九課からのメール。
慰安任務の指名が有ったことの知らせ。
慰安任務。
九課に在籍する男性構成員をハニートラップから守る為の措置。重要な職務についている男性構成員は、迂闊に女を抱くことができない。
性欲を発散させる時が最も情報漏洩の危険性が高い瞬間である。
それを未然に防ぐ為に、課内に於いて指名制でのフリーセックスが認められる場合がある。
有栖川は顔色には出さずとも、心の中で苛立ちを覚えながらため息をついた。
本来ならば拒否権は無い。
しかし彼女は特別諜報員。
単なる諜報員からの指名は拒否できた。
特別諜報員という役職は九課内でも秘匿される為、相手はそれを知らずに指名してきたのである。
(身の程知らずな男)
有栖川はそれを拒否する旨を九課に送る。あとは九課がそれとなく建前を用意して慰安任務が成立しなかったことを相手に知らせるだけだ。
しかし有栖川は怒りが収まらない。
特別諜報員の権限を使い指名してきた相手の素性を調べる。そしてその素行や経歴に疵が無いかを徹底的に調べると、監査部門に送り付けた。
(あたしに触れようなんて愚かな真似をした罰よ。一生昇進できないようにしてあげる)
今までも有栖川を慰安任務に指名してきた男をこうして返り討ちにするのが彼女の常であった。
(ちょろいちょろい。雑魚が)
心の中でどこの馬の骨ともわからない男を見下す。
その度に有栖川はある種の恍惚を覚えた。
九課内に於いて性処理の道具にされる女という立場。その逆境を容易く跳ねのけられる自身の優れた能力に陶然とさえした。
彼女はけして過剰な自信に溺れているわけではない。その傲慢さに見合った実力を持っている。
そしてその技能の殆どはたゆまぬ努力で培ってきた。彼女はただの天才ではなく、地道に塗り固めた強い地盤を持つ。それゆえの強大な自尊心と自負。
放課後になり保護対象が下校すると九課としての仕事は終わる。あくまで彼女の任務は校内での保護及び監視である。校外の領域はまた別の諜報員の管轄となる。
教師としても有能な彼女は早くに仕事を片付けるとプライべートの時間に移行する。
今晩は恋人と外で夕食を取る予定があった。
「お待たせ」
駅前で待っていたスーツ姿の男に駆け寄ると、そっと腕を巻き付かせる。相手は三十代半ばのスマートな男性であった。理知的なのは容姿だけではなく、その言動全てが紳士然としている。
そして何より彼女が彼に惹かれたのはその明晰な頭脳と行動力である。若くしてベンチャー企業の社長であった。
この男と結ばれれば自分はより完璧な人間になれる。そしてより優れた遺伝子を残せる。
その際には九課の仕事も続ける予定だ。今の仕事は自分の才能をいかんなく発揮できる。力あるものはそれを世の為に奮うべきだと彼女は考えていた。
(我ながら一分の隙もない人生プラン)
街ではたくさんの人間とすれ違う。その全てが無益で生産性の無い人間に見えた。社会に貢献する重要な仕事をこなし、そして近い将来には理想の家庭を築く。この世の全てを掌の上で転がしているような万能感すら覚えた。
そんな有栖川の元に、再び慰安任務の指名が舞い降りる。
翌朝、寝起きにそのメールを確認した時にはいつも通りの面倒臭さを覚えるだけではなかった。
なんとその指名元は同じ紫雲学園で働く安藤治であった。
今まで慰安任務を拒否してきた男性諜報員とは直接対面したことが無い。しかし安藤は頻繁に会話も交わす。
だからこそ有栖川は酷い憤りを感じた。
まず自分を性的な目で見ていたこと。
それについては嫌悪感はあるものの、許すことにする。自分が男性にとって如何に魅力的な性的対象であるかは自覚している。
彼女にとって問題だったのは、安藤が彼自身であまりに不釣り合いだと思わなかったのかという怒りだった。
前髪が後退しかかった浅黒い肌の、小太りの中年。
客観的に見て安藤と有栖川では豚と真珠である。
(慇懃無礼にも程があるでしょ)
思わず心拍数が乱れそうになった。
そんな自分を律して、拒絶の旨を九課に送る。
そして安藤に対して強い敵対心を覚えた。
何としても更迭してやる。
(いや、それでは生ぬるいわ……もっと屈辱的で、圧倒的な敗北感を与えないと。あんな完全には程遠い人間があたしを抱けるなんて不相応な夢を描いた罰を下さないと気が済まないわ)
有栖川は全身が燃え滾るような憤怒を覚えながらも、それを一旦頭の片隅に整理した。
彼女がまず優先すべきは任務。
無礼千万な同僚への対応など二の次三の次。
私情で仕事に支障をきたすようでは、優秀な人間とは言えない。
身支度を整えて出勤する。
朝の職員室には安藤が既に着席していた。有栖川が入室した際に、遠くの机から自分に視線を寄越したのを感じる。生理的嫌悪感を抱くが、有栖川がそれから目を逸らすような可愛げのある女ではない。
真っ向から冷たい眼差しをぶつける。無言の弾劾。
人畜無害の同僚を装っておきながら、隙あらば自分を性処理の道具にしようと企んでいたことに彼女のプライドが傷つけられた気さえした。
彼女の完璧な人生に於いて、その道にはどんな矮小な障害も許すことはできない。徹底的に排除してやると改めて誓う。
さてどうしてやろうかと考えていると、朝礼が終わると安藤の方から声を掛けてきた。
「おはようございます」
何と厚顔無恥な男なのだろうと有栖川が呆れる。
とはいえ感情に身を任せるのは彼女の美徳に反する。ヒステリックに喚きたてて物事を解決しようとする女など、有栖川が最も軽蔑する手合いである。
「おはようございます」
怒りをコントロールして挨拶を返した。
「調子はどうですか?」
いけしゃあしゃあと朗らかに世間話をしてくる。
(まだ慰安任務が却下されたことを知らないのだろう。抱く前の品定めといったところかしら。下賤な男のすることね)
「おかげ様で。万事順調です」
「それは良かった。それでどうでしょう。今日の勤務後、親睦を深める為にも一杯引っかけていきませんか」
何と白々しい誘いかと有栖川は眩暈すら覚えそうになった。
しかし彼女はこれを嫌悪感に任せて唾棄するような人並みの女ではない。虎穴に侵入して虎子を得ようとする。
有栖川は一つの決意を固めた。
この安藤という男を徹底的に打ち負かす。
その為の情報収集として懐に飛び込むことも厭わない。
彼女は何よりも重要視するのは、自分が優れた人間であることを証明し続けることであった。
品の良い柔らかい笑顔を浮かべる。
「わかりました。お誘いいただいてありがとうございます」
「おお。ではお店はこちらで用意しておきますので。それでは退勤後にまた」
去っていく安藤の背中に対して心の中で悪態をつく。
(狸おやじが)
自分を慰安係に指名したことを死ぬまで後悔する程、完膚なきまでに叩き潰してやると冷たい激昂を胸に潜ませた。
そしてそれは一旦仕舞い込む。
今は仕事の時間である。
彼女は公私混同をして任務をおろそかにはしない。そんな諜報員は三流もいいところだ。
粛々と教師の仮面を被ると、己の責務を全うする。
そしてその日も特筆すべき出来事は無く放課後を迎えた。
そして事務作業を終えて退勤すると安藤が指定した料亭に向かった。九課御用達の密談にはもってこいの個室が用意される店である。
二人の前に料理と酒が運ばれた。
おしぼりで顔を拭く安藤を前に、有栖川は心の中で爪を研いでいる。さてどうやってこいつを狩るかと思考を巡らせた。自身が食物連鎖の頂点である捕食者であることを愚か者に示さなければならない。
自分が特別諜報員だと明かせば話は早いが、基本的には機密情報である。それを九課内の人間に知られたところで罰則は無い。それでもできる限り自身の情報は切り出したくはなかった。それは諜報員として当然の姿勢である。
「どうぞどうぞ。箸をつけてください」
安藤は如何にも人の良さそうな中年を思わせる言動を取る。しかしその裏では公権力を使い女を抱こうとしている。
そのこと自体に有栖川は何とも思わない。この世界は裏表を使いこなせるのが前提だし、慰安係についても合理的なシステムである。
彼女が許せないのは、自分が舐められていること。
安藤とは同僚として職場を共にしているが、特筆すべき点は見当たらない。そんな凡庸な人間に抱けると判断されたことに腹が立つ。
ヒエラルキーというものを思い知らせて、ひれ伏させたい。
(それにしても呑気ね。やっぱり慰安任務が却下されたことをまだ知らないのかしら)
まずは様子をうかがおうとしていたら、思わぬ不意打ちを喰らう。
「有栖川さんを慰安係に指名させていただいた件ですがね」
安藤は懐石料理の小鉢に盛られた里芋の煮つけを口に運びながらそう言った。
まさかこんなにも無防備に切り出してくるとは思ってもない。しかしその程度で動揺する有栖川ではなかった。
「ええ。聞き及んでおります」
(向こうからインファイトを仕掛けてくるなら話は早い)
有栖川も澄まし汁に品よく口をつける。
「以前からその仕事ぶりに感銘を受けておりました。是非お近づきになれればと思い」
「そうですか」
「聡明な女性に惹かれるのは男の性です」
「いえ、私などまだまだ未熟で」
「不快に思われてなければ良いのですが」
安藤は饒舌だった。
彼が有栖川を褒め称える言葉を並べれば並べるほどに彼女は滑稽に感じる。
(その指名が却下されたと知った時、どんなほえ面を見せるのか楽しみで仕方ないわ)
「いえ。これも九課の人間としての務めですから。
無力で従順な小娘を演じつつも、心の中で安藤を嘲笑う。
精々恥を掻けばいいのだと優越感に浸った。
(これから職場では二度と自分に軽々しく話しかけれない程に気まずくなるでしょうね)
その様子を想像すると有栖川は恍惚を覚える。
誰にも負けない。
誰にも劣らない。
どんな理不尽にも屈することが無い。
なんと完成された人間なのだろうと、自分自身に陶酔すら覚える。彼女のそれは単なる自己性愛パーソナリティとは違う。確かに裏付けされた能力と実績があった。
そんな彼女がいつだって望むのは圧倒的な勝利。
今すぐにでも自分には慰安任務が適用されない種明かしをして、安藤が羞恥と敗北に歪む顔を見たい。
そんな高揚を抑えつつも、それとなく伏線を用意してあげた。
「とはいえ慰安任務が成立しない場合も時折あるそうですね」
「そうですね。例外は何事にも存在します」
安藤の視線が自分の身体を舐め回しているのに気づく。吐き気すら催すが、それもまた安藤の失意を大きくさせると思うと耐えられた。
有栖川は余裕であった。何も心配していない。こんな男に身を任す必要などない。
「そろそろ九課から連絡が来ているかもしれません。確認してみましょう」
安藤が携帯電話を取り出して、その画面を見る。
有栖川は安藤が落胆する瞬間を見られるかもしれないと期待した。
しかし事態は思わぬ方向へと進む。
安藤の口から思いもよらぬ言葉が発せられた。
「ああ、慰安任務が承認されてますね。あとは日時の決定を待つだけです」
有栖川は我が耳を疑う。
思わず言葉を失った。
まず彼女の頭に浮かんだのは安藤の見間違い。そうに違いない。しかしその可能性は即否定される。
安藤がわざわざ携帯の画面を自分に突きつけてきた。
有栖川の視力は良い。顔を近づけなくとも鮮明に文字が読み取れる。確かにそれは九課からのメッセージで、安藤が要請した有栖川との慰安任務を認可する旨を伝えていた。
彼女の思考は困惑を極める。
(そんな馬鹿な……あり得ない。どうして……)
有栖川は自身の携帯を取り出して九課からのメッセージをチェックした。するとやはり慰安任務が成立した旨を知らせる文言が届いている。
しかし皮肉にも、明晰な頭脳は瞬時に一つの可能性を検索した。
「……まさか」
その答え合わせをするように安藤が微笑む。紳士的で穏やかな表情だった。しかし有栖川の背筋が凍る。
「特別諜報員の方でも、同等以上の人間からの指名は拒否できませんよ。有栖川特別諜報員殿」
彼女は息を呑む。
まず自分の役職を知られていること。
そして安藤も少なくとも自分と同じく特別諜報員だということ。
その二つの事実は、彼女から地面を失わせて落下するような感覚に陥らせる。
特別諜報員は九課に両手で数えるほども居ないと聞いていた。そして安藤の仕事の職務や仕事ぶりを観察する限りでは、特別優秀には見えなかった。
それはつまり、安藤が自分よりも数段上の諜報員であることの証左である。能ある鷹は爪を隠す。
自分は安藤の能力を見誤っていたのだ。
そこにはけして心の隙や、先入観による過小評価などは無かった。そんなものに左右されるようでは特別諜報員にはなれない。
つまり有栖川は、純粋に諜報員としての実力で負けたのだ。
「動揺しておられる様子ですね。しかしそれを表面上には出さない。お若いのに訓練が行き届いておられる」
有栖川は奥歯を噛みしめて、安藤を睨みつけたいという衝動に駆られる。しかし一流の諜報員としての性が、無意識にそれらを律した。
「貴女ほどの優秀な人間なら、今回の件も己の糧にできますよ。そう気を落とさないでください。まぁ私のようなうだつの上がらない男に強制的に抱かれるのは、貴女のような若く美しい女性にとっては納得がいかないでしょうが」
有栖川の優秀性は張りぼてではない。この逆境に於いて思考と心は極めて冷静だった。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい。どうぞ」
「私を慰安係に指名したのは、本当にただの性処理が目的ですか?」
「随分と直球ですね」
「仲間内で化かしあいをしても意味が無いでしょう?」
「確かにその通りです。足の引っ張り合いなど愚の骨頂です。有栖川さんの問いに対する答えですが、イエスです。私が単純に貴女を抱きたいと願ったからですよ。この年でも性欲は衰えないものでね。困ったものです」
有栖川の見立てではおそらく安藤の年齢は五〇前後といったところだろう。それほど上背の無い固太りで丸顔の、どこにでも居る中年から壮年に股を掛ける男性である。
す、と有栖川の心から様々な負の感情が落ち葉のように散っては舞って落ちていった。
敗北感に打ちのめされている暇などない。自分は常に勝者でなければならない。
そんな彼女に宿るのは、冷たく鋭い覚悟と決意。
「……了解しました。慰安任務、承ります」
静かにそう言った。
「よろしくお願いします」
安藤は人畜無害な笑顔を一切崩さない。そして有栖川に食事を勧める。
「さぁさぁ。折角のご馳走が冷めてしまいますよ」
中途半端に能力とプライドが高く、高飛車なだけの人間ならばここで席を立っていただろう。
しかし有栖川は生半可な完璧主義者ではない。
何としても安藤を引きずり落とす。この敗北感を拭うにはそれしか選択肢は無い。
その為にはまず敵意を悟られてはならない。
従順を装い、自分は無力な小娘だと相手に認識させる。
本来ならば発狂したくなるほどの憤怒であった。しかし有栖川は一時の感情に任せることはしない。
全ては最終的に自分が勝利する為。
「お酌させていただきます」
「おやおや。ありがとうございます」
まずは相手の懐に入る。
その後も無難な会話をして解散となった。
そして帰宅するや否や、彼女はその怒りを露わにする。高級マンションの扉を閉めるとまずは大きく深呼吸をした。その表情は鬼のよう。壁を蹴り飛ばしてやろうかと考えたが、自身にも痛みが伴うだけで合理的な行動ではないと判断。彼女は好物である卵かけご飯をかきこむように平らげた。
それで一旦気持ちを落ち着かせる。
理不尽を呪ったりはしない。
それは凡人のすること。
勝利への道は自分の手で切り拓ける。
何をすべきかだけを考えた。