電子版配信日:2025/12/12
電子版定価:880円(税込)
学校での俺、春野巧は、いてもいなくても誰も気にしない存在。
友達は少しだけいるが、当たり障りのない会話をするだけ。
ある日偶然、彼氏と喧嘩し泣いている女子を見つけてしまう。
神野沙利奈、一年生の時には同じクラスでたまに雑談するだけの子。
なかば不純な動機で慰めると、流れのまま彼女の部屋に連れ込まれ……
「私たち付き合う? 負けヒロイン、彼女にしたら最強説、だよ?」
その日のうちに、ベッドの上での濃密でずぶずぶなセックスへと発展した。
第一章 その他大勢な俺と失恋美少女
第二章 初めての二人きり、親のいない家で
第三章 図書室、見えない場所での秘密
第四章 映画デート迷走から仲直りまで
最終章 写真炎上と偽装カップル作戦
本編の一部を立読み
第一章
「あー、今日も絶妙に、何もない」
川沿いの細い遊歩道。生い茂ったばかりの若葉が、風にそよいでカサカサと鳴る。水面はあくまで緩やかに流れ、足元には時々、白い鳥の羽根が落ちている。空には、もやのように薄い雲が緩く広がっているだけ。
春野巧《はるのたくみ》の呟きは、まるで景色の一部になって、どこにもたどり着くことなく空中で溶ける。
誰にも向けてない言葉。たとえば家族にも、友達にも、教師にも、こんな本音をぶつける場所なんてどこにもない。
クラスでいうなら〝目立たない方寄り〟――だけどかといって別に、陽でもないし、陰にも振り切れてる自覚はない。
この中間地点。どっちつかず。この立ち位置が一番面倒くさい、と最近やっと気づいた。
陽キャ。教室の中心で、くだらない話を絶え間なく続けてるサッカー部、バスケ部の連中。時々話を振られて、相槌を打つ。つまらないわけじゃないが、どこかで自分が「その場の顔」を演じているのがわかる。
魂が三グラムくらい重くなる。しょうもない疲れ。
逆に、陰キャ。教室の窓際や隅で、分厚い文庫本、スマホゲーム、あるいはイヤホン越しに音楽。彼らの世界は独自のルールと濃度で動いていて、ひょいと首を突っ込める余地なんて、実はほとんどない。
一度、アニメの話題を振られて、配信のランキング上位にある人気作のタイトルぐらいは出せても。
次の瞬間には「作監が××で、ここのカット割りは△△のセルフオマージュらしいよ」とか、声優のデビュー年、あるいは推しVtuberの初配信エピソードや案件コラボの裏話まで、数珠つなぎに披露される。
もうそれ、専門家じゃん、と心の中で呟くしかない。
「あ、そうなんだ、詳しいね」
返しは、傍観者の乾いたセリフ。それしかない。
話す相手はいる。昼飯を食う相手にも困らない。部活だって、幽霊部員というほどじゃないが、熱心でもない。
友達と呼べるやつは、まあ、いる。
でも、「親友」と胸を張って言える相手はいない。全てが、浅い。
広く、浅い。人間関係の海を、足だけつけてパシャパシャやっているようなもんだ。
風が一段と強く吹いて、川面のさざ波がきらめいた。遊歩道の向こうから、女子生徒の二人組がきゃらきゃらと笑いながら歩いてくる。
同じ学校の制服だが、見たことのない顔だ。一人はショートカットで快活そうな子。もう一人は、ポニーテールを揺らし、少しはにかんだように笑っている。
無意識に、視線がポニーテールの女子に吸い寄せられた。
風でスカートの裾がふわりと舞い上がり、白い太ももとその奥が一瞬だけ、陽の光に照らされる。慌てて裾を押さえる細い指先。汗で首筋に張り付いた数本の髪が、妙に色っぽく見えた。
すれ違いざま、ポニーテールの女子が隣の友達に囁くのが、聞こえてしまった。
「……キモ」
反射的に、歩く速度が上がる。
彼女たちの笑い声が、背後で遠ざかっていく。早足でアスファルトを蹴りながら、自嘲めいた呟きが漏れた。
「あ、やっぱ俺、今日も〝何もない〟な」
***
「あれ、真帆は? トイレかな……あ、おっす、巧~!」
振り向くと、神野沙利奈《かみのさりな》が立っていた。明るい茶色のショートヘアが、教室の光を浴びてきらきらしている。一年のときに同じクラスだったこともあって、彼女が気さくに話しかけてくるのは自然なことだった。
親友の長谷川真帆《はせがわまほ》に用があるらしい。
「真帆ならたぶんトイレに行ったぞ。……で、俺になんか用?」
「暇つぶし! 真帆が戻ってくるまで、なんか面白い話してよー。うちのクラス、みんな話題ループで死にそうなんだけど!」
沙利奈は巧の机の角に軽く腰掛け、期待に満ちた目でこちらを見る。その圧に、少しだけ面倒くささを感じつつも、昨日の出来事が脳裏をよぎる。
「うーん……じゃあ、まあ、超絶くだらない上に、若干引かれるかもしれない話でもいいなら」
「お、きたきた! 引くとか引かないとか、そういうのは聞いてから判断するし。早く早く!」
「昨日さ、帰り道、川沿いの遊歩道を歩いてたんだよ。そしたら、前から女子が二人組で歩いてきてさ。で、まあ、その……」
「うんうん、それで?」
沙利奈の目がキラリと光る。
「……タイミングよく、風がブワッて吹いてだな。そのうちの一人のスカートが、こう、ふわりと……」
「はっ! 絶対ガン見したでしょ! どうせ『ありがとうございます!』って心の中で拝んでたんでしょ!」
「違う違う! 不可抗力だって! でも、まあ、一瞬は……うん、見えた」
観念したように頷くと、沙利奈は待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「正直でよろしい! で、どんなやつ? 色とか柄とか、洗いざらい白状しなさいよ!」
「だから覚えてないって! ……ただ、なんか、すげー普通に紺色っぽくて……端っこにレースが……あ、やべ、俺なんでこんなこと!」
うっかり口を滑らせた巧を見て、沙利奈が腹を抱えて笑い出した。
「うわっ、めっちゃ覚えてんじゃん! ディテール完璧! 観察眼えぐ! 紺にレースとか、一番コメントしづらいやつ!」
沙利奈が爆笑するのを横目で見ながら、巧は肩をすくめてため息をついた。
「いや、どうでもいいけどさ。結局、その子さ、すれ違うときに『キモ』とか言うわけよ。ぶっちゃけ、そういうのちょっと攻撃的すぎじゃね? パンツ見せて歩いてるのお前らだろって。短いスカートは自分で選んでるんだし」
「うわ、出た出た! 男子の〝だったら見せんな理論〟!」
沙利奈は大げさに手を振る。
「そういうこと言うけどさ、女の子はスカート短くしたいんだよ。おしゃれだし、足がキレイに見えるし、パンツ見てくれとは一言も言ってません、残念でした!」
「はいはい、でもそうやっておしゃれ優先してんのに、いざ風でめくれたら『キモ』はなくない? 見た方も被害者でしょ。こっちは不可抗力なのにさ、なんで即有罪扱いなんだよ」
沙利奈はすかさず巧を指で差しながら、にやっと笑う。
「いやいや、男子ってみんな脳内スクショ撮ってるって女子は知ってる。ありがとうって思ってたでしょ?」
「思ってないって言ったら嘘になるけどさ、でもさ、せめて去ってから『キモ』って言えよ。真横で言うのは地味にダメージでかいからさ」
「つーか、あれよ、そういうときは『キモ』って言っとけば、自分の恥ずかしさも薄れるんだよ。女の子って意外とダメージコントロールに必死なの! だから気にすんなって」
その一言で、なんとなく胸のもやもやが薄くなった気がした。
「なんか、それ聞いたらちょっと気楽になったわ。いや、納得できるかは別として、さ」
「ねぇ、もしかしてあたしって巧のメンタルカウンセラー枠? このまま愚痴大会にされるパターンだったら、なんかごちそうしてくれなきゃ割に合わないんだけど」
彼女の軽いノリに、思わず眉をひそめる。
「ちょっと待てよ。俺、別にカウンセリング頼んだ覚えないし。ていうか、そもそも沙利奈こそ『面白い話してよ』って言ってきて、俺が精神的にダメージ受けた体験談を話してやったわけじゃん? しかも大笑いされて、最後はまあ仕方ないよねってざっくりまとめられて。これで奢れってのは、どういう理屈だよ」
沙利奈はクスクス笑いながら、再び机の角に腰掛ける。その瞬間、制服のスカートがちょっとだけずり上がり、白くすべすべした太ももがちらり。
慌てて視線を逸らす巧を見て、彼女はニヤリと笑った。
「今、視線逸らした! やっぱ昨日の件、トラウマになってるじゃん! かわいー」
「逸らしてないし、どっちみち俺の視線からは見れないだろ」
ちょうどそのとき、教室の後ろのドアが開いた。
「あ、沙利奈来てたんだ。ごめん、待った?」
トイレから戻ってきた沙利奈の女友達、爽やかな笑顔の長谷川真帆が入ってきた。
「お、おかえり真帆! ううん、全然。はいこれ、教科書サンキューね。マジ助かった」
沙利奈は持っていた数学の教科書を真帆に手渡す。
「どういたしまして。で、何の話してたの? なんかすごい盛り上がってたけど」
真帆が不思議そうに二人を交互に見る。
「ん? ああ、巧のパンチラ被害談と、それに伴うトラウマの話!」
沙利奈が軽快に暴露すると、真帆は「えー、何それ」とくすくす笑い出した。
「マジで言いふらすなよ……」
***
「だから、もういいって言ってるじゃん」
掃除当番を済ませて、忘れ物を取りに教室に戻る途中、校舎の角で声が聞こえた。
聞き覚えのある声。神野沙利奈だ。
「沙利奈、お前がそんなこと言うなんて……。俺たち、うまくいってたじゃん」
男の声。知らないやつだが、どこか甘ったるく、それでいて面倒くささが滲み出ている。
まずい、と思った。これは踏み込んじゃいけない領域の話だ。踵を返そうとしたのに、なぜか足がコンクリートに縫い付けられたように動かなかった。
立ち聞きするつもりはなかったが、角の向こうで繰り広げられている会話が耳に入ってくる。
「うまくいってた? 冗談でしょ。あんた、この前も他の子とカラオケ行ってたの知ってるから。しかも隠すつもりもないし」
沙利奈の声は、昼間の軽やかさとは全然違っていた。疲れているような、諦めているような響きがある。
「あれは誤解だって。友達だよ、友達とカラオケ行っただけ。お前みたいに疑い深いの、正直しんどいわ」
「疑い深いって……。あんたが『沙利奈って面白いけど、たまにうざくね?』って他の人に言ってたの、聞いちゃったんだけど」
「それは……冗談だろ。お前、そういうとこあるじゃん。空気読めないっていうか」
「空気読めない……。そっか、そういう風に思ってたんだ」
沙利奈の声が、さらに小さくなった。普段の元気な彼女からは想像できないほど、弱々しい声だった。
「別に悪い意味じゃないって。ただ、もうちょっと大人になってくれよ。お前、いつも子供っぽいし」
「子供っぽい……うん、そうかもね。ごめん」
なんだこいつ。
心の中で舌打ちした。沙利奈の何が子供っぽいって言うんだ。あの明るさや素直さを、そんな風に言うなんて。
「だから、また今度、落ち着いて話そうよ。お前も感情的になりすぎ」
「感情的……。うん、わかった。でも、もういいよ。私、疲れちゃった」
「沙利奈?」
「お疲れさま。私、こういうのに向いてないみたい。バイバイ」
足音が近づいてくる。咄嗟に、近くの階段の陰に身を滑り込ませようとした。
だが、間に合わなかった。
角を曲がってきた沙利奈と、真正面から目が合ってしまった。
彼女は、驚いたように目を丸くして、その場に立ち尽くす。俯き加減の顔には、まだ涙の跡がうっすらと残っているように見えた。いつものキラキラした表情はどこにもない。
気まずい沈黙が、廊下に重くのしかかる。
「……」
「……」
先に口を開いたのは、沙利奈だった。彼女は無理やり、引きつったような笑顔を作って見せた。
「あ、はは……。巧。……聞いてた?」
その声は、震えていた。
「……ごめん。聞こえ、ちゃった」
正直に言うしか、できなかった。嘘をつけるような雰囲気じゃない。
「そっか。……最悪」
沙利奈はそう呟くと、顔を背けて俯いてしまう。その肩が小さく震えているのが見えて、どうしていいかわからなくなった。慰める言葉なんて、一つも思い浮かばない。
角の向こうから、男の舌打ちする音が聞こえ、やがて足音が遠ざかっていく。沙利奈は、それを聞いても微動だにしなかった。
どうすればいい。声をかけるべきか、それとも黙って立ち去るのが優しさなのか。
昼間の、彼女の軽口が頭をよぎる。
『あたしって巧のメンタルカウンセラー枠?』
馬鹿言え。逆だろ、今。
何を思ったのか、一歩だけ彼女に近づいていた。
「……あのさ」
沙利奈が、びくりと肩を揺らす。
「なんつーか……あいつ、見る目ないな」
自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。
沙利奈が、ゆっくりと顔を上げる。その大きな瞳は潤んでいて、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「……は?」
「いや、だから……。沙利奈のこと、『うざい』とか『子供っぽい』とか言うやつは、見る目がないってこと。そういうとこ、俺は……面白いと思うし」
そこまで言って、自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っていることに気づいた。顔に熱が集まるのがわかる。
沙利奈は、きょとんとした顔で巧を見つめていたが、やがて、その瞳からぽろりと一筋、涙がこぼれた。
「……なに、それ」
「いや、ごめん! なんか、変なこと言った!」
「……ううん」
彼女は首を横に振って、制服の袖で乱暴に涙を拭った。
「……ありがと」
かろうじて聞こえるくらいの、小さな声だった。
そして、ふっと、彼女の肩から力が抜けたように見えた。
「……なんか、お腹すいたな」
唐突な一言に、俺は面食らう。
「え?」
「今日の話、結構カロリー使ったから。……ねえ、巧」
彼女は、まだ少し赤い目で、でも、昼間と同じような悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺を見上げた。
「カウンセリング料、請求していい?」
その変わり身の早さに、呆気にとられながらも、なんだか少しだけ、安心していた。
***
駅前のドーナツ屋は、放課後でもまだ賑わっていた。やたらおしゃれなガラス張りのショーケースには、色とりどりのドーナツがきれいに並んでいる。外のテラス席に腰掛けているのは、巧と沙利奈。
「何にする? この季節限定のやつとか、色々あるけど」
沙利奈がショーケースをじっと覗き込んでいる。前髪が微妙に跳ねていて、さっきまで泣いてた痕跡なんて、もうどこにも無い。
「いや、絶対うまいから。特にこれ――バニラグレーズのやつ。俺、初めて食ったとき笑うくらい感動したから」
「えー、でもさ――苺クリームにチョコスプレーかかってるやつ、めっちゃかわいくない? インスタ映え的にこっちでしょ」
沙利奈がトングを手に、その〝苺クリーム&チョコスプレー〟ドーナツをトレーにのせようとしたとき、巧が口を挟む。
「いや待て、それ完全に見栄えだけで推してるやつだって。味で選ぶなら断然バニラグレーズ。だいたいチョコスプレーは、見た目カラフルなだけで実際そこまで主張してこないから」
「うるさいな~、そーゆー理屈っぽいとこが妙にリアリストでイヤ。……じゃ、バニラと苺の両方いこっか。どうせ巧の奢りだし」
店内の二人掛けのテーブル席に向かい合って座る。二人とも砂糖の香りに包まれながら、トレーの上のドーナツを前に、少しだけ静かな時間が流れた。
「でさ、あいつ、絶対浮気してる。カラオケとか言ってたけど、完全に合コンなんだったし。しかも、もう最近の態度が全然違うの。LINEの返信も『了解』とか『またな』ばっかりで、既読スルーもザラだし!」
沙利奈はそうまくし立てながら、まず苺クリームのドーナツを大きな口でパクリと頬張った。口の端にクリームをつけながらも、その口調は完全に愚痴モードだ。
「男ってさ、浮気バレてないと思ってるけど、女は空気で全部わかるんだっての。昨日の夜、LINEで『他に女いるんでしょ、正直に言え』って送ってやればよかったかなー……」
「そしたらもっと泥沼化してただけだろ。ていうか、浮気するような男は、どうせ言い訳しかしないって。お前が正論言ったところで、逆ギレされて終わりだよ」
「それな! しかも、『沙利奈って面白いけど、たまにうざくね?』とか陰で言っといて、こっちが感情的になったら『子供っぽい』で片付けるとか、マジで意味わかんない!」
苺ドーナツの断面から、ピンクのクリームがとろりと覗いている。沙利奈はそれをフォークでつつきながら、ふっとため息を漏らした。
「はぁ……。結局、こういうときに頼れるのって、甘いもんとカロリーだけなんだよね。女としてどうなんだろ、これ。……あ、でもこれ普通に美味しいわ」
口の端にクリームをつけながらも、愚痴は止まらない。それに適当に相槌を打つ。そして沙利奈は、次に自分のトレーに乗ったバニラグレーズにフォークを入れた。
一口、口に運んだ瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
「……え?」
大きな瞳を、さらにまん丸く見開いている。
「やば……何これ……革命的にうまいんだけど!」
さっきまでの愚痴はどこへやら、興奮した様子でドーナツを見つめている。
「だろ? 言ったじゃん」
巧が得意げに言うと、彼女は「うん、うん!」と激しく頷き、あっという間に自分のバニラグレーズを平らげてしまった。そして、その勢いのまま、キラキラした目で巧のドーナツを見つめる。
「……てことは、巧のそれも、同じくらい美味しいってことだよね?」
「いや、同じもんだからな?」
次の瞬間、返事をする間もなく、沙利奈がテーブル越しにフォークを素早く伸ばしてきた。
「はい、一口いただき!」
「は!? おい、自分の食べたばっかだろ!」
制止も虚しく、ザクッと切り分けられたバニラグレーズの半分が、あっという間に彼女の口の中に消えていく。満足げに目を細め、もぐもぐと頬張りながら、彼女は悪びれもせずに笑った。
「んー……最高。失恋の傷は、美味いドーナツで上書きするに限るわ」
「限るな! 人の分まで取るなよ!」
本気で抗議すると、彼女は「はいはい」と適当にあしらい、今度は自分が食べかけていた苺クリームのドーナツをフォークで刺し、ずいっと巧の口元に差し出してきた。
「はい、あげる。傷心の乙女からのプレゼント。ありがたく食べなさい」
「いや、食べさし……」
そう言いかけたが、彼女の「ほら、あーん」という無邪気な圧に負けて、巧は観念して口を開けるしかなかった。ふわりと甘い苺の香りがして、柔らかいクリームが舌の上で溶ける。
美味い。美味いけど、それどころじゃない。
今、口に入ったこのフォーク、さっきまで沙利奈が……。
一人で混乱しているのをよそに、彼女は「やっぱバニラだなー」なんて言いながら、巧のだったはずのドーナツを幸せそうに食べている。
「ねえ、今の私たち、めっちゃカップルっぽくなかった?」
空になったトレーを眺めながら、沙利奈が唐突に言った。いたずらっぽく細められた瞳が、窓から差し込む西日を反射してキラキラと輝いている。
「食べさしのドーナツを『あーん』して、相手のおすすめを横取りして……。少女漫画だったら、次のページで絶対付き合ってるパターンじゃん」
「……まあ、そうかもな」
「でしょ? ……じゃあさ、付き合う? 私たち」
軽い。あまりにも軽い口調だった。まるで「次のドーナツ何にする?」と聞くような気軽さで、彼女はとんでもないことを口にする。
それでも、どこか胸につかえるものがある。
卑怯さ――たぶん、そういう気持ち。
別れたばかりの女の子に、手を伸ばそうとしている自分も卑怯。
軽いノリに乗じて、冗談めかして告白をぼやかすのも卑怯。
本当に好きなら、正面からぶつかるしかないのに、それすら逃げている。
〝もし断られても俺もノリです〟みたいな保険をかけて、格好悪い自分だけが残っている気がした。
「私、今フリーだし、結構〝優良物件〟だと思うんだよねー。まず、話してて面白い。これ大事。それに、見ての通りスタイルは悪くないはず。おっぱいだって、そこそこあるし? 手足も長い方だし、一緒に歩いてて恥ずかしくはないと思うけどなー。どうよ」
今日のこの奇妙な成り行きを、彼女らしいジョークで締めくくろうとしている。ここで「何言ってんだよ」と笑って返すのが、100点満点の正解。
頭の中で、そろばんを弾くような、嫌な自分が顔を出す。
今、目の前にいる神野沙利奈は、数時間前に彼氏と別れたばかりだ。
傷心で、寂しくて、判断力が鈍っているかもしれない。そんな彼女が、場を繕うために放った軽口。それに真顔で乗っかるなんて、どれだけ卑怯な行為だろうか。
できた人間や物語のヒーローなら、傷ついたヒロインに優しく寄り添い、彼女が自然に立ち直るのを待つだろう。
でも、この女が欲しい。
ダサいクズで結構だ。
後で軽蔑されたっていい。
「……沙利奈、付き合おっか」
本気の声は、思ったよりも震えていた。
彼女は数秒きょとんと見つめ、それから「ぷっ」と吹き出した。
「はぁ~……びっくりした。巧って、そういうとき絶対やめろよーとか言って、ごまかすタイプと思ってたのに」
「まあ、自分でもびっくりしてる」
「いいね、その勢い。私そういうの好きだよ?」
沙利奈はフォークをトレーにポンと置き、椅子の背にもたれ、いかにも面白がっている顔でこっちを見ている。
「……で、オッケー。はい決定!」
「え、あっさりだな」
「え~、なにそれ? もっと〝激アツとろとろコース〟欲しかった? なら今から超濃厚にいっとく? 『巧だいすき、だいすき、愛してる』とか連呼しようか? あっはは、笑える~」
わざとらしく手でハートを作って、周囲の目も気にせず大げさに自分の胸に当てる。
「てかさ、そういう勢い好きなクセしてビビりだよね、巧って。ほら、勢いで付き合う流れ乗ったんだから、この後も流されてみれば? 今からウチくる? 親いないしね」
悪戯っぽくウィンクしながら巧の手首を掴んで引いてくる。
「……その沙利奈、たまに破壊力えぐいな」
「でしょ? だから〝彼女にしたら最強説〟なんだよ」
彼女はさらに笑みを深くして、巧の手をぐいっと引き、もう次のステージに連れていこうとしていた。
その勢いと距離感に、予感で胸がバクバクしながら、その流れに任せて肩をすくめるしかなかった。