俺の妹、黒崎紅愛は、誰もが認める完璧超人だ。
類稀なる美貌と才能を持ち、驕ることなく努力を続ける正真正銘の才媛。
でも彼女が、その裏で血の滲むような努力を続けていることを誰も知らない。
「にぃ様、私もう、頑張れないです……だから私を、甘やかしてくれませんか」
俺だけに見せるその表情に抗えず、ぎゅっと身体を抱き締めて頭を撫で撫でする俺。
そんな俺たちはいつしか唇を繋ぎあい、ついにある日、兄妹の道を踏み外し……
妹いちゃらぶ大大傑作のeブックス賞受賞作! 書き下ろし短編追加で堂々開幕!
#1 完璧超人はどこにも居ない
#2 紅愛の「お願い」
#3 「綾人兄さん」
#4 背徳の味
#5 一線の先へ
#6 世界で一番
#7 浴室に響く
#8 幸せになるために
#9 作戦
#10 ご褒美
#11 切望
#12 日常と非日常
#13 冒涜的な
#14 デート前
#15 プレゼント
#16 想いの形
#17 710号室
#18 そして理性は朽ち果てる
#19 どれほど泣き叫んでも
#20 愛してる
#21 壊れるまで
#22 そこに籠った愛だけは
#23 彼女
#書き下ろし 二人きりの世界で
本編の一部を立読み
#1 完璧超人はどこにも居ない
腐るほどの金を持ち、息を呑むほど容姿端麗で、運動も勉強も常人では敵わないほど完璧にこなす。非の打ち所がない性格で、慈愛に満ち溢れ、誰からも尊敬される。そんな御伽噺のような完璧超人が果たして実在するだろうか。
俺はそんな人間をたった一人だけ知っている。
そいつは絵に描いたような、「完璧な人間」だ。数え切れないほどの友人に囲まれ、頼りにされ、尊敬され、それに驕る事も無く謙虚な姿勢で日々を笑って生きている。
世の中の天才は往々にして人並み以上の努力を重ねている。そいつとて例外ではなく、俺からすれば考えただけで鬱になるほどの圧倒的な努力を日夜積み重ねている。
側から見ていれば、人生の全てが順風満帆であるように見えるだろう。「完璧な人間」であるならば、今も将来も幸せが約束されていると思うだろう。
だが一方で、俺はこの世に「完璧な人間」が存在しないこともまた知っている。
華々しい活躍の裏で血の滲むような努力を続ける日々が、果たして本当に幸せだと思うだろうか。「完璧な人間」である事を望まれるのは、幸せだと思うだろうか。
俺はこう思う。そんな人生は地獄以外の何物でもないと。
人は自分が思うよりも余程脆い生物だ。張り詰めた糸の上をギリギリで綱渡りするような、吐き気を催す緊張の中で満足に生きる事など到底叶わない。
だから、人知れず破綻した。
俺の足元には見るも無惨な吐瀉物がぶちまけられていた。泣き叫び、嗚咽と汁を撒き散らしながら、そいつはそこに蹲っていた。
張り詰めていた糸は遂に限界を迎えてしまった。想像を絶する日々のストレスと、周囲から寄せられる過剰な期待はこいつを完膚なきまでに壊してしまった。
糸が切れてしまえばもう立てない。奈落の底まで落ちて全てを失うだけ。
俺は許せなかった。こいつの惨状に気付けてやれなかった俺自身を。気付こうともしなかった周囲の人間を。
「……今まで良く頑張ったな、|紅愛《くれあ》」
もう全てが手遅れだったとしても、今この瞬間から俺は紅愛の為に生きると決めた。こいつのこんな姿を見てもなおその背中を支えてやれるのは、もう俺しかいない。
俺は紅愛と比べるまでもない不肖の兄だ。ハンカチなど持っているはずもなかったが、構わず服の裾で紅愛の顔をそっと拭ってやる。
震える紅愛は俺の手を取り頬に押しつけた。未だ止まらない涙もそのままに、ただ俺を呼び続けた。
「にぃ様……っ、っぐ、うぁ、にぃ様ぁ……っ!」
哀切なその目を真っ直ぐに受け止めながら、俺は紅愛を静かに抱きしめた。紅愛が泣き止み落ちつくまで、ずっと。
*****
俺の家、黒崎家は裕福だ。父は国内五大商社の内の一社で役員を務めており、家に帰って来ることは滅多にない。多忙故に家族を顧みる余裕すら無いというのは、現代社会においてそう珍しい事では無いだろう。
物に困ったことはない。父が学生には使い切れない金を毎月口座に振り込んでくるお陰で、およそ贅沢と呼べる経験はそれなりにしてきた。
でも、幾ら物に囲まれた所で心の隙間は埋められない。
俺は生まれてから今まで、親の愛と呼べるものを受け取った記憶がない。父は放任主義だし、母は色々あって俺を疎んでいる。
優秀な父の遺伝子を受け継いでいる俺とて、中学くらいまではそれなりに努力してきた。お陰で県内随一の進学校に余裕で合格できた訳だが、それを喜んでくれたのは妹の紅愛ただ一人だけだった。
俺は入学を機にあらゆる努力を辞めた。「自分の為」と言うだけの理由で頑張れるほど殊勝な性格をしていないからだ。今にして思えば、努力してきたのはずっと父の気を引きたかったからなのだと思う。
ただ認めて欲しかった。頑張ったな、偉いな、と。ただそれだけの言葉が貰えれば良かった。
そんな些細な願いは終ぞ叶わなかった。かなり早い段階で気付いてしまったのだ。父は俺に興味がないのだと。
俺には兄と姉が一人ずつ、そして妹が一人いる。早く生まれた順から姉の|桂花《けいか》、兄の|斎人《さいと》、俺こと綾人|《あやと》、そして妹の|紅愛《くれあ》。
家庭環境は微妙に複雑で、紅愛だけは異母兄妹となる。要は腹違いの妹と言う訳だ。
俺の本当の母親は俺を産んですぐに亡くなってしまった。その後父が以前から妾として囲っていた女を孕ませて紅愛が生まれ、今の母──|玲奈《れな》は黒崎家に籍を入れることとなった。
元々妾だった事もあってか、今の母は父に対する発言力が少々強い。父も大企業の役員という立場上、妻の他に女を囲っていた事はあまり知られたくないらしく母の言葉には従うことが多い。意に沿わねば妾だったことをバラされる可能性があると危惧しているのか、実際にそう脅されているのかは知らないが。
今の母は若い。父は五十歳手前くらいだが母は三十六歳。自己顕示欲が強く、野心家だ。
今の母からすれば己の子は紅愛ただ一人。俺と兄、そして姉の三人は前の女の子供という事になる。その中で紅愛がどのような扱いを受けるか、人によってはすぐに想像がつくかも知れない。
紅愛は母の期待を一身に背負うこととなった。長女よりも美しく、長男よりも賢く、次男よりも正しくあれと、そう育てられてきた。
塾に習い事、慈善活動、趣味の領域ですら結果を求められる。幸か不幸か紅愛は素直で努力家だったため、母の無茶な期待に応えるべく必死に努力をしてきた。
そしてこれも幸か不幸か、紅愛もまた優秀だったのだ。その過剰な期待に応えることが「出来てしまった」。
気を良くした母は紅愛に更なる期待をかける。紅愛もまたそれらに応えてしまう。それが終わりの始まりだった。
「……平気か、紅愛」
片付けを終えた俺は俯いたままベッドに腰掛ける紅愛にそう問いかけた。紅愛の部屋には今、俺と紅愛の二人しかいない。今ならこいつの本音を聞き出せるかも知れない。
俺が紅愛の部屋に来たのは、最近紅愛の様子がおかしかったからだ。俺と紅愛の部屋は隣同士だが、一週間ほど前から夜になると啜り泣きのような音が聞こえるようになった。
朝になると紅愛の目が赤かったり、酷い時は目の下に心配になるほどのくまを作ったり、「完璧」な紅愛からは考えられないような状況が続いていたのだ。
俺は勇気を出して、啜り泣きの声が聞こえる深夜に紅愛の部屋の扉を叩いた。そして出てきた紅愛の様子は、それはもう酷いものだった。
目を真っ赤にして泣き腫らして、それでもなお涙が止まらない。自分の意思ではもうどうにもならない様子で、宥めすかしていると遂には嘔吐までしてしまったのが先ほど。
「にぃ様……私、私は…………」
何かを言いかけて、口籠る。その繰り返しだ。紅愛は弱みを見せる事を本能レベルで忌避している。本音を語るのは紅愛にとって、常人の何倍も努力を重ねることより余程難しい。
本当なら俺に泣いているところや、あまつさえ吐くところを見られたのは紅愛にとって何よりも耐え難い事だろう。
だが見てしまったものは仕方がないし、見られた事は取り返しがつかない。だからこの際、俺に全部ぶちまけてくれれば良いのにと思う。
そんな一心で、俺は紅愛の隣に寄り添い続けた。じっと黙って紅愛の言葉を待つ。
触れた肩からは紅愛の震えが伝わってくる。自分が「完璧」でないのが怖いのだろう。内心を察した俺はそっと紅愛の頭を撫でた。
「あ…………」
ぴくりと肩を揺らし、紅愛が俺を見る。さらりと流れる艶やかな黒髪の乱れを直すように、丁寧な手つきで紅愛の頭を撫でていると、次第に震えはおさまっていく。
近くで見る紅愛は兄の俺でさえ、どきりとするほど綺麗な顔をしている。端正な目鼻立ちはモデルやアイドルに引けを取らないどころか、それら有象無象より余程優れている。実際芸能関係のスカウトも頻繁に来るらしい。
完璧超人など何処にも居ないが、超絶美少女なら今俺の隣にいる。
「にぃ様、私……もう、頑張れない、かも知れない……です」
絞り出すように告げられたその言葉に、俺は黙って頷いた。それが紅愛が初めて漏らした本音だったが、俺は一週間前から察していた。
元々紅愛は何処か張り詰めた表情をすることがあった。俺と二人きりで他人の目が無い時に限られていたが、俺は前から紅愛の限界の兆候を目にしていたのだ。それが何を意味しているのか、考えることもしなかった。
今にして思えばどうしてもっと早く紅愛に声を掛けてやれなかったのかと、後悔の念に絶えない。俺は本当に大馬鹿だ。
夜中に啜り泣きの声が聞こえてきた時、もう紅愛は限界なのだと直感的に悟った。同時に、「完璧」である事は紅愛にとって不幸なのだと知った。
だから俺は、せめて俺だけは完璧でない紅愛を肯定する存在でなければならない。そうでないと、こいつはもう二度と立ち上がれないだろう。
「……頑張れなくても良い。紅愛は今まで良く頑張ってきた。紅愛の頑張りはずっと俺が見てたよ。だから、もう肩の力を抜いて良いと思う」
「……でも、でもそうしたら私……お母様に……叱られる」
「叱られたく無いよな。母さん怖いもんな。……大丈夫だよ、叱られる時は俺も一緒だ」
紅愛が不思議そうな目で俺を見る。キョトンとしている妹に向かって俺は微笑みながら告げた。
「紅愛が頑張れなくなったのは俺の所為って事にすれば良い。俺が頑張るなって言ったとか、適当な理由を付けて紅愛を唆した事にするさ。俺は母さんに叱られてもなんとも思わないし。紅愛の事は俺が守るから、だから……安心しろ」
じわりと紅愛の瞳に涙が滲む。何も言わずに頭を撫で続けていると、涙はまた溢れ出してきた。
「ひぐっ……にぃ様っ……私、頑張ってきたっ……頑張ってたんです……!」
「……あぁ」
「でもっ、でもっ! お母様、まだ全然だって、足りないって……っ。中間テスト、先生がまだ習って無い範囲の問題を間違えて入れて、それで満点取れなくて……私、凄く叱られて……っ」
ああ、もう理解した。母は些細なミスでも紅愛には厳しく当たる。単純に努力不足という事であれば紅愛もまだ納得して頑張れただろう。
だが今回ばかりは教師側のミス。紅愛に責任は無く、叱られるのは理不尽というものだ。
張り詰めている人間に「理不尽」というものは存外よく効く。何とか保っていた心を容易く突き崩すだけの威力がある。
母は、最後の最後で紅愛の心を壊してしまったのだ。
「それから全然眠れなくて……気を抜くと涙が止まらなくて……っ、ぐす、お稽古事も、社交パーティーも、全部辛くなってきて……私、私ぃ……!」
「大丈夫、大丈夫だ。頑張れなくて良いんだ。それが普通なんだ。……俺は紅愛よりも出来が悪いから、紅愛の辛さを全部は分かってやれないかも知れない。でも、忘れないでくれ」
俺は紅愛を抱きしめた。紅愛は独りではないのだと、言葉よりも強く伝えるために。
「紅愛の頑張りも、辛さも苦しみも、俺が全部知ってる。俺の前では完璧になんてなるな。頑張らなくて良い。俺は絶対に紅愛を見捨てたり、嫌いになったりしないよ」
その言葉を皮切りに、紅愛は悲痛な声で泣き叫んだ。無駄に広い家の中でその声を聞く者は俺一人だけ。父は言わずもがな不在、母は数日前から何処かへ出かけ、兄と姉は既に独り立ちしている。
薄情な家族共だ。紅愛がこんなに苦しんでいるというのに、誰も寄り添ってくれない。
俺だって辛くて苦しい時は何度もあった。大企業の役員の息子という事で、妙な色眼鏡で見られることもある。でも一度たりとて家族が俺を慰めてくれた事はない。
紅愛一人を除いては。
「……にぃ様、ごめんなさい。迷惑を掛けて」
「気にするな。何度も言うけど、俺は紅愛の味方だよ。俺の前でどんなに泣いたって、弱音を吐いたって、俺は絶対笑わない」
紅愛は泣き止んだ後、腕の中で俺を見上げた。細められた目は何処か陶酔感を感じるもので、俺は一瞬面食らってしまった。
涙の後が残る頬は桜色に染まっている。初めて目にする紅愛の泣き笑いの表情に、俺は黙ってその言葉を聞くことしか出来なかった。
「……不思議です、にぃ様。本当に、ついさっきまで辛くてどうしようもなかったんです。死にたいって、心の底から思ってたんです。でも、でも──」
きゅっと、紅愛の細くて白い綺麗な指先が俺の服を掴む。俺の胸元に縋り付くような格好で紅愛は続けた。
「もう全部溶けて無くなってしまいました。胸が温かいんです。きっと、にぃ様が優しくしてくれたから」
「俺は……何も。何もしてないよ。今も、昔も。紅愛が辛かったの、最近になるまで気付いてやれなかった。ごめんな、紅愛……」
「違います、違うんですにぃ様。にぃ様は何もしてなくなんか無いです。だって、にぃ様は今まで、私の事を褒めてくれていたではないですか」
紅愛は悲しげに首を横に振る。確かに、俺は紅愛の頑張りをずっと褒めてきた。それは確かだ。
俺自身が得られなかった優しい言葉。これからも手に入らずとも、与えることはできる。母の様子を見ていれば、紅愛もまた俺と同じく正しく愛されていない事は明らかだったからだ。
せめて少しでも俺と同じような思いをさせないために、機会があれば可能な限り紅愛の努力を認めてやってきた。それを紅愛は覚えてくれていたらしい。
「にぃ様の言葉がどれほど嬉しかったか、私を救ってくれていたか、分かりますか?……もう限界を迎えてしまいましたが、それでもここまで保って来られたのは全部全部、にぃ様のお陰なんです」
紅愛は嬉しそうに微笑んでいる。俺の言葉は紅愛に届いていた。それが知れただけでも満足だった。
「そうか、良かった。でも俺だって同じだ。紅愛だけが俺に優しい言葉をくれた。テストで満点取った時も、運動会で一位を取った時も、第一志望の学校に合格した時も、全部紅愛だけが喜んでくれた。褒めてくれた。俺だって、紅愛に救われてきたんだ」
「……一緒、ですね」
「ああ。一緒だ」
笑い合う。俺たちは独りじゃない。家族はろくでもないけれど、紅愛となら支え合っていける。俺は今はっきりと実感した。
紅愛が俺に身を預ける。互いの身体を通して伝わる体温が心地よかった。
「にぃ様……その、お願いがあるんです」
躊躇いがちに告げられた言葉に、俺は快く頷く。先を促すと、紅愛は恥じらいに頬を染めながら俺の目を見つめて呟いた。
「これからも、こうして……私を甘やかしてくれませんか」
「甘やかす?」
「は、はい。先ほどのように頭を撫でて貰ったりとか……今みたいに抱き締めて貰ったりとか……その、いろいろ……」
何かと思えばそんな事で良いのだろうか。今の俺なら母の態度に思い切り噛み付いて見せる事だって出来るのに。
紅愛の瞳は揺れていて、不安と羞恥に染まった表情は少々扇情的にも思えた。……妹に対して邪な想いは抱くべきでない。俺は気を取り直してすぐに頷く。
「お安い御用だ。して欲しくなったらいつでも言ってくれ。俺が紅愛の為に出来る事なら何でもする」
「……何でも、ですか?」
「ああ、何でもだ。約束する」
俺の決意は固い。もう紅愛の為に生きると決めたんだ。その為なら俺は忘れてしまった努力も再びしてみせよう。
そんな想いで力強く頷いてみると、紅愛の表情は見る間に花が咲いたように明るくなる。薄く細められた目は潤んで綺麗だ。
「にぃ様……あぁ、にぃ様……っ」
紅愛の腕がするりと俺の背中に回る。抱き締められたまま抵抗出来ずにいると、胸板に当たる紅愛の柔い膨らみの感触が伝わった。
それなりの大きさを誇る紅愛の胸。兄としては妹の成長を喜ぶべきだろう。邪な気持ちは抱くべきでない。
もう一度自分に言い聞かせ、俺は胸板に頬ずりする紅愛の頭を静かに撫で続けた。
後になって思えば、その言葉を口にしたのはあまりにも軽率だったのだろう。「何でもする」なんて──。