「私は勇者と呼ばれている転生者。──貴方を殺しに来た」
欲望のままに日々を生きる小物盗賊・クロックの目の前に、
前世で弄ばれてヤリ捨てられたという女勇者・アンナが現れた!
突如始まった逃亡劇。道中の勇者パーティの追っ手もハメ倒し
返り討ちにするうちに、人類の敵の魔王軍との戦いにも巻き込まれ……
女たらしのカスの盗賊が、勇者と魔王の現れた世界を救うカギに!?
WEBで大人気のクズ系ヤリ捨て逃亡ファンタジー、開幕!
第一話 英雄クロック
第二話 身に覚えのない復讐
第三話 目標は国外逃亡
第四話 物資補給
第五話 拾い物の味見
第六話 教育
第七話 港町シニット
第八話 女の家に転がり込む
第九話 忍び寄る
第十話 迫る時間
第十一話 遭遇
第十二話 逃亡戦! VS聖騎士ティート
第十三話 死刑囚には何をやってもいいという風潮
第十四話 盗賊を組み敷く少女騎士
第十五話 奇妙な変化
第十六話 脱獄
第十七話 それぞれの思惑
書き下ろし番外編一
書き下ろし番外編二
本編の一部を立読み
第一話 英雄クロック
「人族は、敗北したんだ」
沈みかけている日が、眼前を橙に染めていた。
膨大な影を地平線に浮かべ、それは炎のようにゆらりと蠢きながら迫ってくる。
「俺たちにできることは、死ぬ前に中指立てて煽ってやることだけだ」
城壁の上で、窮地にひねくれた言葉を投げかける。
周囲の兵士たちは、それを聞いても明るくも暗くもならない。
ただ、眼前の地獄を見据え、真顔で手を震わせているだけだ。
蠢いているのは大地を埋め尽くすほどの魔獣。
迎え撃つのは小さな砦と、少数の兵士たち。
絶望が、周囲を取り巻いていた。
「いいえ。貴方なら、この窮地から皆を救うでしょう」
背後に控えていた女が言った。
静かに寄り添っていた彼女は、半歩後ろから支えるように言葉を紡いだ。
「貴方こそが真の英雄です。勇者様でも、聖女様でもない。何の力も持たないからこそ人々に寄り添えた。貴方こそが無辜《むこ》の民の導き手です」
「みんな、クロックさまを信じてるよ。大丈夫、ミィが絶対絶対守ってあげるから!!」
明るく振る舞う少女の声。
振り返れば、二人は微笑んでいた。
魔人族でありながら、敵対種族であった人族の自分に付き、最後までついてきてくれた女。
獣人族でありながら、窮地に手を貸し、ずっと一緒だと言ってくれた猫むすめ。
スパイと忍と盗賊だ。
組み合わせの相性は何とも言えない。三人揃って矢面に立つのが得意ではない。
だが、良き相棒だったと思う。
彼女たちがいなければ、クロックはとっくに死んでいた。
「へいへい。んな気ぃ遣わなくても、俺はとっくに腹括ってるっつーの。心配なのはお前らだぞ。どいつもこいつも俺がいなきゃ何もできねぇ奴らばっかだからよ」
彼女たちの期待に応えるように、コキ、コキ、と首を鳴らす。
いや、格好つけただけというべきか。
「はい? 急に何を言い出してるんでしょう。女がいなければ人として最低限の生活も送れない甲斐性なしの癖に。さっき言ったことは訂正します。貴方は存在価値がダンゴムシ並みです。浮気ゴミクズの勘違いヒモ野郎です。今宵はなるべく情けなく死んでください」
「も~、クロックさまったら急にカッコつけちゃって! ミィがちゃんと最後まで一緒にいてあげるから安心してね! ね、ね。可愛いって思った? 一生傍にいたいって思った~? もう~、クロックさまったら~」
気合いを入れた瞬間に背後からのツッコミ。
半目ガチに呆れ顔を見せる魔人の女と、あざとく尻尾を揺らす猫獣人の娘。
ズッコケたくなる気持ちを抑え、二人の頭をわしゃわしゃと撫でた。
また、終わったら話そうぜ。
気軽に告げて、背を向ける。
ほんの少しだけ別行動。
まずは目の前の仕事をさっさと終わらせる。
それが日常というものだろう。
別れ際、一瞬だけ見えた泣きそうな顔が脳裏に染み入る。
結末を予期しているのだろう。
これがきっと最後なのだと。
「ガラでもねぇのに、気合い入れちまうっての」
あんな顔を見せられては負けるわけにはいかないだろう。
盛大に勝って、ドヤ顔で勝利宣言といこう。
その後は、またいつものように呆れ顔を見せて欲しい。
その後は、
「野郎ども、ぶちかませ!! 攻撃ィィィィィィィィーーッッ!!」
それから僅かに数分後。
クロックが合図を送ると、城壁で一斉に掛け声が響いた。
始まった全力投火。難民たちの抵抗戦。
世界を変える、轟音が響く。
勇者のいない場所。孤立無援の小城にて、押し寄せる魔王軍との決死の戦いが始まった。
第二話 身に覚えのない復讐
「おい、クロック」
太陽が沈んで間もない時刻。
王都の一角にある酒場で、豪快な笑い声がこだましていた。
並ぶテーブル席を占拠しているのは声ばかり大きい荒くれ者たち。
他者を憚らない笑い声。
漂う食事の香りと酒の臭気。
労働者の汗の臭いが入り混じり、この場所特有の空気を作っている。
「お前、何かやらかしたか? 王国がお前のこと探してるらしいぞ」
「……は?」
店内を照らす、魔石の橙光。その光があまり行き届いていない端の席。
小太りのマスターが、一人静かに酒を呷っていた男に声をかける。
「何言ってんだ。国に探されるようなことはしてねーよ」
「んとかぁ? さっきから巡回兵がお前らしき奴を探してるって話だぞ。年齢三十前後で、クロックという名の男を知らねぇかってよ。何人も聞かれてるらしいぞ」
「……マジか?」
マスターは、顔色を探るように怪訝な表情を浮かべていた。
あまりに笑えない冗談に、男は揺らしていたグラスを置いた。
クロックにとって、それは本当に身に覚えのない話だった。
何故憲兵に探されている。事実なら拙《まず》いことになっているのは明らかだ。
特定の犯罪対策で憲兵が動くなら分かる。
しかし、特定の個人を狙って国が動くとなれば普通ではない。
人違いの可能性は大いにありえる。
クロックという名は特別たくさんいるわけでも、いないわけでもないだろう。
しかし、三十前後のクロックという条件が該当している以上、疑いの対象になるのは間違いない。
「……マスター。ちと急用を思い出した」
「そうかよ。お前も大変だな。精々頑張んな。今日はツケといてやらぁ」
断罪に必要なのは真実ではなく、必然性である。
国が求めているものが裁いたという事実だけなら、身の潔白など関係ない。
見つかれば、取り敢えずで絞首刑となる可能性は十分にある。
危険が迫っているのは明らかだ。
席を立つクロック。
それを見て、マスターは空の器を下げ、あっさりと奥に引っ込んでいった。
昔からの知己なのに淡泊な対応だ。
所詮は客の一人。オッサン同士の関係なんてのはこんなものか。
他の客の視線を潜ると、そそくさと店を出て行く。
一先ずは雲隠れだ。
事が静まるまで身を隠した方がいい。
男が人目を憚りながら店を出て行くと、それを見届けたマスターは、情報を提供した二人の客の下に向かった。
「どうだった? やっぱアイツだったか? まさか貴族の屋敷にでも手ぇ出したか?」
「あいつにそんな度胸あるかよ。何も知らねぇんだとよ」
男たちは顔を見合わせ、つまらなさそうに両手をあげた。
この手の刺激的な話題ほど、酒の肴に相応しいものはない。
「それくらいの大物っぷりを見せてくれりゃあ、最高に面白ぇんだがな!」
「はっ、そんときゃ漏れなく憲兵に突き出してやるがな」
わっはっは、と一際大きな笑いが店内に響いた。
少し珍しい噂話は、ひと時の笑いとして昇華された。
マスターが接客に戻ると、いつもの日常が再開する。
クロックのことなどすぐに忘れ去られ、普段通りの光景が戻ってくる。
所詮はこんなものである。
平穏な日常とは、そう簡単に覆るものではない。
「国家軍警察だ!! 店主はいるかッ!!」
その後しばらくして、憲兵たちが店にやってきた。
ドカドカと軍靴を鳴らす武装警察。突然のことに騒然とする店内。
とある男を捜索している。ここは男の行きつけの店である。
多くの冒険者たちが集うバーは、瞬く間に兵士たちと非日常で満たされた。
月明りが差す空を見上げる。
うっすらぼやけて見える雲。空が灰色に見えるのはほろ酔いがためか。
気分は若干の夢心地だった。
横になれば、すぐにでも眠れることだろう。
さて、どうしたもんかね。
焦って店を出たはいいが、宿への帰宅はぼんやりと徒歩だった。
追われる身となったようだが、事態がどの程度進行しているのか分からない。
まだ焦る段階じゃないと思えてきたのだ。
酒気で心地いい気分に浸る。
昨日何を食べたかを思い出すくらいの気持ちで、過去の所業を振り返った。
最近やったこと。スリくらいしか思いつかない。
人違い。無関係。他人の空似。
国が動くほどの大事をやらかしたのなら忘れるわけもない。
ぜってー関係ねぇよなぁ。
だが無視するわけにもいかねぇ。
探されているのがクロックという名の誰かである以上、巻き添えは十分ありえる話だった。
しばらくは偽名を使って隠れた方が賢明か。誰かが余計なことを言わないのを期待しつつ、人目を忍んでおく必要がある。
ここでは見知った者が多すぎる。
明日にでも王都を離れた方がいいだろう。
「……おし、今日はさっさと寝るか」
整然と並んだ石畳を踏んでいく。
視界に、寝泊まりしている宿を捉える。
今日という一日の終わりが来たことを理解し、安堵する。
その時だった──。
「こんばんは」
細く、麗しい声だった。
「……んぁ? なんだ?」
向かいから、唐突に女の声に呼びかけられた。
気付けば四人。真っ直ぐにクロック目掛けて歩いてくる。
髪の長さや雰囲気から、全員が女性だろうか。
前の二人は帯剣をしており、後ろの二人はローブを身に纏っている。
その装いと雰囲気から見るに、どうやら冒険者パーティらしい。
「──クロック・リヴォルノとお見受けする」
女の声が、クロックをフルネームで呼んだ。
先頭のやつだった。暗くてよく見えないが、物凄く美人そうな雰囲気だった。
だが、そんな呑気なことを考えたのは一瞬だけだ。
「……なんだテメェら」
四人組から伝わってくる、鋭い殺気。
反射的に腰のナイフに手をかける。
後ろ足が、自然と間合いを取るように半歩下がった。
「俺に何の用だ?」
「……」
声のトーンを落とし、牽制するように質問する。
相手は答えなかった。差し込む影で顔など見えないが、まるで獲物として見定められているようだった。
脳内に鳴り響く警鐘。
明らかに友好的ではない。
強そうな相手から散々逃げてきた数々の対人経験。
生き延びることにだけ尖らせてきた感覚が、この状況を危険であると告げていた。
「オイ。何か言えよ」
「私は……私は勇者と呼ばれている者。貴方を殺しに来た」
「……は?」
それは唐突な宣戦布告だった。
腰の後ろのナイフを抜く。
刃の先を相手に突きつけ、威嚇。
荒くれ者らしく獣のような敵意を送り付ける。
「勇者って、あの勇者アンナか? ……何で勇者が俺を殺しに来んだよ」
勇者アンナ。数百年ぶりに現れた勇者という、生ける伝説と呼ばれる者。
人類の代表。選ばれし者。魔王を討つ使命を持つ者。
それは決して、クロックのような小物が関わるはずのない、天上の存在だ。
想定外の言葉に、動揺する。
刃を向け、内心を悟られまいとして睨みつける。
しかし、相対する連中は誰一人として動じる気配はなかった。
「ずっと探していた。貴方への恨みを晴らすために」
「……恨みだと? 俺がお前に恨まれるようなことしたってのか?」
しかめっ面を浮かべる男。
恨まれる覚えなんて微塵もないのだ。いや、むしろ山ほどあるのだが、それは相手次第というやつだ。
スリ、窃盗、空き巣。あとレイプ。
概ね盗みで生計を立てて生きてきた。当然被害をこうむった連中からは恨まれているだろう。
しかし、王国で顔と一緒にバレるようなヘマをした覚えはない。
「……人違いだろ。お前に恨まれる覚えなんざねぇぞ」
一応別人説をあげておく。
本当に覚えがないのだからそうとしか言えない。別人ではなかったとしても、勘違いという可能性はまだあるはずだ。
名前がフルネームで割れてる点が気掛かりだが、一旦無視する。
「……クローチェ男爵家に覚えは?」
「クローチェ……男爵家?」
一体何のことだろうか。
彼女の問いかけに眉をひそめる。
クローチェ……?
脳内で言葉を巡らせてみる。
何となく言葉の響きは聞き覚えがありそうだが、思い出せなかった。
基本的に貴族相手に盗みは働かない。バレた時のリスクが大きいので、相手にしないと決めているのだ。
スッた相手がたまたま貴族だった。それならありえるかもしれないが、そんなものは姿格好を見ればすぐに分かる。
「生憎だが、貴族サマとの縁なんてねぇよ」
手を振って堂々とした態度で主張する。
こういうのは怪しまれる動きを見せないことが大事だ。ハッキリ違うと言い切った方が信用を得やすいもの。
「わりぃな。目的の相手じゃねぇみてぇでよ。まぁ頑張ってくれや──」
そして面倒になる前に退散することにした。
なし崩しにその場を去るべく、闇夜の中を通り過ぎようとして──。
「……そう」
女は声のトーンを下げた。
それは分かりやすく失望を露わにしていた。
流れるような動作で腰元に手をかけ、
「……えっ?」
よぎったのは死の予感。
咄嗟に──いや、遅れて後退する。
それに続き、刃の鋭い反射光が目に入る。
「ちょ、待てッ! 本当に知らねぇんだって!!」
剣が、抜かれていた。
認識外の速度で、通り過ぎようとしたクロックの前を刃で塞いでいた。
剣を抜く瞬間がまったく見えなかった。
あまりに速すぎる。人間の動きではない。
コイツ、マジの勇者じゃねぇか……!!
髪を僅かに靡かせ、目の前で静かに佇む。
見定めるような視線が男を貫く。
「マジで何も知らねぇんだ!! これは何かの間違いだぜ……!! 一旦落ち着こう。ほら、まずは話し合いからだ」
煙に巻こうとして、いきなり死ぬかと思った。
落ち着いた声。可憐な女の雰囲気だったもので、適当にあしらえば何とかなると思ってしまった。
尋常じゃない実力と、容赦のなさ。
背筋に冷や汗が流れる。
「えっと……なぁ、そのクロックって奴は、そんなに俺に似てっか? ほら、どっか違うところがいっぱいあんじゃねぇの?」
ワタワタと言葉を繰り出す。
あくまで俺じゃない誰かだと主張する。
静まり返る空気。
何とか説得しようと試み、無言だけが返ってくる。
何も言わずに、その罪を咎めるように威圧してくる。
吹き抜ける、微かな風。
そんなものでは流れていかない強烈な気配に、気持ちが萎縮させられる。
くそ、なんだコイツ。
なんか喋れよ。
話が進まねぇだろうが。
相手の不気味な様子に悪寒が走る。
唇が乾いていく。
頬を少し冷たい空気が掠め、どうしようもない焦りと苛立ちをもたらす。
三秒後には死ぬかもしれない。
いつ剣を振られてもおかしくないと思うと、今すぐ走って逃げたい気持ちに駆られる。
もういっそ逃げるべきだろうか。
だが背を向ければ死ぬ気がする。
逃げられるような相手でもないだろう。この場は穏便に収める努力をした方がいい。
上手いこと切り抜けたら、速攻で王都を離脱する。
コイツは関わっちゃいけないタイプの人間だ。
ふと、勇者の背後に視線を向ける。
背後から見守っているのは、三人の女たち。
勇者の同伴なら、同じ冒険者パーティだろうか。
闇夜と月の逆光で顔すら見えないが、動く気配が感じられない。
……よし、命乞いだ。これで行こう。
勇者なら情くらいあんだろ。
交渉で命を繋ぐ努力を。
何の容疑をかけられているのかすら分からないが、やれることはやるべきではないか。もしかすると、仲間の中から一人くらいは同情を引き出せるかもしれない。
人間の争いは刃で解決するばかりではない。
それは勇者ならきっと理解があるはずだ。
言いくるめるのではなく、話を聞く。
彼女の話を聞き、同情的な態度で申し訳なさを全面に出す。
倒せない。逃げられない。ならば闘志を削ぎにいくのだ。
よし、この方向だ。
「…………ぐすっ……」
そうして口を開こうとした矢先、目の前の女に異変が生じた。
鼻を啜る音だった。
「やっぱり……遊びだったんだ……」
フードからはみ出た白っぽい髪が揺れる。
今にも襲い掛かってきそうだった雰囲気が、突如として不可思議なものに変わっていく。
女は剣を持たない左手で目を拭った。
直後、強い気迫が漂い始めた。
「……許せない。クローチェは領地と爵位を取り上げられて家を取り壊された。貴方に捨てられた私は、失意の中で館と共に焼かれて散った。何もかもがなくなった。でも……でも、そんなことより、私の気持ちを弄んだことが一番許せない」
話をしながら膨れ上がっていく怒気。
女の手が、強い感情で震え始めた。
弄ぶ。恨みとはそういう方向だったらしい。
しかし、クローチェとかいう貴族の女になんか、手を出した覚えはない。
家に爵位があるような厄介なやつに近づいたりしないし、そもそも目の前の女を知らない。
「待て待て、俺はお前なんて知らねぇよ。焼かれて散っただあ? テメェ生きてんだろうが。さっきから言ってることがメチャクチャじゃねぇか!!」
「私が生きているのは、死した後に女神ティークアより救われたから。勇者の役目を引き受けたことで転生した」
「……転生?」
「そう。前世の名はシルヴィア・クローチェ。貴方に弄ばれ捨てられた、田舎貴族の小娘だった」
「……はぁ?」
転生。急に現実味のない話が出てきた。
浮気を咎めるような鋭い視線。
剣よりも、平手が飛んできそうな雰囲気。
なのにその口から出た意味不明な言葉に、クロックはポカンと口を開く。
「……前世で俺に弄ばれたから、今になって復讐しに来た……って?」
何言ってんだコイツ。
壺の売り込みでももうちょっとマシな言い方をするだろう。
前世で恋人だった、で始まる話は全て詐欺。
王都の住民なら誰でも知っている使い古された手法だ。
「えーっと……まあ落ち着けよ、そりゃ勘違いだ。俺はクローチェだのシルヴィアだのなんて知らない。そういう前世設定はもう聞き飽きたんでな。……ほら、売り込むなら俺じゃなくてもっと若い奴に──」
「私は!! この二度目の生を受けてからも、ずっとずっと貴方のことを考えて生きてきた。私を捨てて背を向ける貴方を思い出すたび、悔しくて悔しくて……胸が裂かれる思いだった。クロック。全てを奪っておきながら、貴方は私を覚えてすらいないんだね」
「え? い、いや……その……」
宥めようとしたら墓穴を掘ったらしい。
知らない、を忘れたと解釈されると非常に苦しいものがある。
これは、何を言っても言い訳として取られるパターンだ。
つーかこの女、俺のフルネームを知ってんだよな。
もしかして本当に知己だったりするか?
マジで俺の方が忘れていると。
やべぇ、全然覚えてねぇ。シルヴィアって誰だよ。
一歩、後ずさる。
言い繕う言葉が見つからない。
鬼気迫る彼女の雰囲気に、つい気持ちと足が後退する。
すると、彼女もまたそれに呼応するように一歩前に出てきた。
こっそりと開こうとした距離が、すぐに埋められた。
いやいや、勘弁してくれよ。
勇者なんだろ。魔王の討伐にいけよ。
前世の因縁より大事なことあんだろ。
「おーい、クロック!」
何とか言い訳を模索していると、後方から呼びかけられた。
拍子抜けするほど平和な、聞き覚えのある声だった。
「……クロック、憲兵の奴らが……おっと、取り込み中か?」
「え? あ、あぁ……ちょっとな……」
つい先ほど、バーのテーブル席に座っていた奴らだった。
名はゾルとヘイスルという冒険者。飲み仲間だ。
やってきた二人は、剥き出しの刃を見て眉をひそめた。
町中で抜剣しているのだから当然だ。
ロクでもない状況なのは一目で分かる。
「オイオイ、物騒なことになってんな」
「いや……なんか俺に捨てられたとか言ってきてよ」
「ほー、そりゃテメェが悪いわ。大人しく斬られとけ」
「いや、ちげーって。誤解だ誤解。俺は別に──」
突如現れた援軍だ。せっかくだから加勢してくれないだろうか。
そんな他力本願なことを考えた時だった。
……おっと?
ゾル。お前の固有スキルって確か……。
それは、刹那の閃きだった。
見えた光明に、内心でニヤりと嗤う。
もしかすると、上手くいけば助かるかもしれない。
「……なぁヘイスル。ちょっと代わりに話を聞いてくれねぇか? 彼女、俺と話すと気が立つみたいでな」
「あ? 別にいいぜ。あー、どうしたよ嬢ちゃん。コイツに何かされたのか?」
相手が勇者とも知らず、気軽に声をかけるヘイスル。
それに追従しようと前に出るゾル。
二人は冒険者なので、低級だが社会的地位がある。
しかし、その本質は荒くれ者と大差のないロクでなしだ。今まさに気の良い兄ちゃんみたいな口ぶりで話し出したが、中身はただのクズなので表面上だけだ。
「酒臭い。近寄るなゴミ」
「……あ?」
二人が勇者に近寄る。
すると、背後で待機していた仲間の一人が、勇者の前に躍り出てきた。
背は低いが帯剣をしている。
おそらく剣士だろう。
「……んだコラ。テメェらがうだうだ言ってっから話を聞いてやろうってんだろうがッ!」
ちょっと煽られたくらいで、すぐに語気を強めるヘイスル。
沸点が低いというより、困ったら取り敢えず恫喝しとけの精神だ。
こうすれば、気弱な奴は言うことを聞くと思っているのだ。
「お前たちには求めていないだろう。消えろクズ共」
「……あ? オイオイ、舐めた態度じゃねぇかクソチビ──」
小娘にあしらわれるヘイスル。
更に恫喝しようと前に躍り出た時、突風が吹き付けた。
「えっ」
調子の外れた声は誰のものだったか。
傍で鳴り響く破砕音。
見れば宿の壁の一部が壊れ、人が突き刺さっていた。
一瞬目がおかしくなったのかと、瞬きを繰り返す。
宿から、ヘイスルの下半身が生えていたのだ。
「はァ?! なんだこいつ?!」
驚愕の声を上げたのは、お供のゾル。
至極当然の反応だろう。クロックもポカンと口を半開きだ。
矮躯の少女騎士は、拳でヘイスルをぶっ飛ばした。実力があるのは容易に想像できたことではあるが、人外レベルの怪力だった。
どうやら、勇者だけでなく他の三人までもが桁外れの力の持ち主らしい。
邪魔者がいなくなると、勇者が一歩前に踏み出した。
鋭い殺気が、クロックに向けられる。
これは本当に拙い。次瞬きした瞬間に斬られるかもしれない。
決断するなら、今しかない。
「待てゾル。手を出すなッ!!」
及び腰で、今にも逃げだそうとしていたゾルの肩を掴む。
あたかも剣士の女に歯向かおうとしているため、止めようとするかのような発言をするクロック。
「はっ?! オイ、何してんだ! 離せ馬鹿ッ!!」
「待て、奴らに逆らうんじゃねぇ!!」
我ながら臭い芝居だ。
そう思いながらクロックは、背後からゾルの首筋に触れる。
そのまま魔力を回転させると、虎の子スキルを発動した。
────スキル発動、強奪《バンディット》。
「邪魔だ」
「うぐォッ?!」
スキル発動の直後、ゾルは吹っ飛んでいった。
ヘイスルの傍に、猛烈な音を立てて突き刺さる。
「ま、待てよ。まだ何も話し合ってねぇだろッ?!」
誤魔化すように、慌てた声を上げる。
女剣士から向けられる冷たい視線。
顔なんて見えなくてもゴミを見る目なのはよく分かる。
平手を打つ直前の女と同じ空気だ。
ただしこっちは手じゃなくて剣だが。
「……邪魔者は消えたよアンナ。やるならとっとと済ませなよ。過去を断ち切るんでしょ」
過去を断ち切る。
端っから弁明の余地など与える気はなく、血をぶち撒けるつもりでいたらしい。
それ程までに、恨まれているのか。
「……ん」
勇者は、簡潔に意思を示した。
暗闇でも分かるほど美しい剣。
その切っ先が向けられる。
過去とやらを、物理的に断ち切る決意をしたのだろう。
唇が、固く結ばれていた。
……いやいや、こんなわけの分からん理由で死んでやるわきゃねぇだろ。
抜き身の剣が、クロックの血を求めて煌めく。
凄く切れ味が良さそうだ。勇者が振るえば、苦しむ暇もなくサクッと首を刎ねて殺せるに違いない。
苦しまずに済むなら、ここで死ぬのもある意味救いだろうか。
しかし、人間は死を目前にすると足掻くものだ。
特に、盗賊というのはそこいらの一般人よりずっと生き汚い。
この女の知るクロックがどんな奴かは知らないが、目の前にいる男はそういう人間である。
「……言い残すことがあるなら、聞く」
「……わりぃが、俺はまったく覚えがねぇ。んな意味分かんねぇ理由で殺されるのも勘弁だ。犬に噛まれたと思ってよ。忘れてくんねぇか?」
「そう──」
女が、再び失望したような反応を示した。
残念ながら、彼女の凶行を止めることは叶わなかったようだ。
あと一秒後には、刃が振るわれるのだろう。
────発動、|緊急離脱《エスケープ》。
固有スキルを持って生まれてくる者はあまり多くない。
大抵の物は盗める強奪は、元から便利に思っていた。
色々ネックなところもあるが、この日ほど固有スキル持ちとして生まれてきて良かったと思う日はなかったかもしれない。
「え?」
慌てて伸ばされた女の手は、空を握る。
光の粒子となって消失する男。
転移する直前に見えた美しい青水晶の瞳は、どこか悲しげに映っていた。
第三話 目標は国外逃亡
「……おーい、アンナってば」
「…………えっ?」
呼び声に気付き、顔を上げるアンナ。
見覚えのある部屋。王都で借りた少しだけ良い宿の一室。
視線を下ろせば、座っていたのは柔らかいソファーだ。軽鎧を着たまま腰掛けており、脱いだフードマントを膝掛けのように使っていた。
私は……何をしていたんだっけ。
魔石光に照らされた居室内。窓に目を向ければ外は真っ暗で、どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
いつの間に戻ってきたのだろうか。前後の記憶が曖昧になっている。ぼんやりした感覚は、何だか夢でも見ていた気分だった。
ふわりと、視界の端に金色の髪が映る。
すぐ傍に立ったのは先ほどの声の主。
両手を腰に当て、心配そうに覗き込んできた。
愛くるしい表情。見慣れた友人を前に目をパチクリとさせる。
「大丈夫か? 顔色酷いぞ。今日はもう休んだ方が……」
「ううん、大丈夫。ちょっとボーッとしてただけ。それよりティート。クロックの行方は?」
現状の確認を行う。
仲間の心配はいつだって嬉しいが、今だけは優先順位がある。
ギュッと拳を握りしめ、逃げた男の顔を想起する。
「……あのクソ野郎は既に王都から出てるってさ。ヘルミーネが魔力の痕跡を見つけたみたいだから間違いないよ」
彼女の言葉に目を伏せる。
思い返そうとすると、やっぱり心が苦しくなる。
怨敵、クロック・リヴォルノ。リヴォルノ家の次期当主だった男。
リヴォルノ家は既にない。彼は下野し、現在は盗賊として密かに王都で暮らしていた。前世のアンナを死に追いやった、自身の仇だ。
そして、元恋人。
「そっか。私……」
復讐の手順はほとんど完璧に行われた。
外堀を埋め尽くし、決して逃げられないよう周到に根回しをしたうえで、人と魔法で王都ごと囲み、追い詰めた。
手も足も出ずに捕まるしかなかったはずだ。彼は、勇者アンナの前で膝をついて許しを乞うはずだった。
失敗した。想定外の手段により、彼はあっさりと逃げてしまった。
「逃げた方法も判明したよ。やっぱり緊急離脱のスキルだってさ。まさか固有スキル持ちだったとはね」
固有スキル。生まれ持った才能。
魔法という魔力を使った技術とは違う、個人が持つ特殊な能力。
緊急離脱は構造物やエリアの外に転移するスキルだ。
比較的有名なスキルなので、情報も多い。あの瞬間に使用したのなら、離脱先は王都の外で間違いないだろう。
固有スキル持ちは非常に少ない。
一つの町に一人いるかどうかと言われている。どのような能力なのかも生まれた時に既に決まっており、スキル持ちなのかを判別する手段は乏しい。黙っていれば、生涯人に知られないこともザラだろう。
前世で彼に関わっている時、そんな話は聞いたことがなかった。
彼は恋人であるアンナにさえ隠し通していたということだ。
だから考えもしなかったし、そのような手段を警戒していなかった。
「王国を味方につけて、王都全体にめちゃくちゃ入念に結界を張って、町中を隅から隅まで兵士に出張ってもらって。ここまでしたのに失敗するなんてね。固有スキル持ちだって知らなかったのか?」
「知らない」
仲間の問いかけに、少しぶっきら棒に返す。
「知らない……知らないの。どうして私は知らないんだろう。私と……そういう関係だった時、何も言ってなかった。普通は恋人だったら秘密とかお互い共有したりして……教えてくれたりするものだよね? もしかして、私のことは捨てたんじゃなくて最初から遊びだったのかな?」
「……いや。えーっと……」
戸惑ったティートが困ったような表情を浮かべた。
一瞬、室内がシーンと静まり返る。
その時、背後の扉より開閉音が聞こえた。
コツン、コツンと、石床を鳴らす、二人分の足音が近づいてくる。
「アンナを泣かせてんじゃないわよ」
「……泣かせてない。人聞きの悪いことを言うな」
ティートがぷくっと口を尖らせる。
そこに、長い黒髪と鋭い瞳、ローブを羽織った美女が姿を見せる。
追跡調査を行っていたヘルミーネだ。背後には、王国に事情説明に赴いてくれていたオリアナもいた。勇者パーティ四人、再集合だ。
「アンナは情緒が随分と不安定になってるわね。一度しっかり休んで落ち着いた方がいいわよ」
「私は別に問題は……」
「大アリよ。あの小悪党、見つけた時点で即始末できたのに、しなかったでしょ。どうしてできなかったの? 過去と決別するとか言ってたけど、凄く引きずってるじゃない」
ヘルミーネの指摘に、言葉を詰まらせる。
彼女の指摘はもっともだ。アンナはその気になれば男を即殺できたはずなのに、話し合いから始めた。それ自体はどうという話でもないが、結果的に逃げられたのは良くなかった。
今回の件ではアンナ一人の都合のためにかなりの人間が動いた。
傍から納得されにくい形で終わってしまったため、王国への事情説明で苦労する羽目になった。
視線を向けると、方々に足を運んでくれたらしいオリアナは、気にしないでとばかりに笑みを向ける。
「……ごめんなさい」
「別に怒ってるわけじゃないわ。アンタの気持ちも分からないわけじゃないもの。だけど、この件に関しては一旦棚上げにして頂戴。アンナには一度、勇者本来のお仕事に戻ってもらうわ」
仕事。そう告げるヘルミーネにアンナは顔を上げる。
「教国で起きた事件。捜索に参加するって話だったでしょ。あっちは急ぎだから復讐は一旦おしまい。小悪党についてはこっちで探しておくから」
ヘルミーネに肩をポンと叩かれる。
勇者アンナは、静かに首を縦に振った。
見渡す限り木々で溢れる、自然豊かな山道。
微かな風でざわめく森。日が傾き始め、周囲の山々は赤く染まっている。
王都を離脱し、逃亡を続けること早三日。
飲み仲間を盾に逃げおおせたクロックは、連日連夜を徒歩で移動していた。
人が通るような道は避けて進む。
獣が通るための、茂みに隠された狭い道をひたすら通り抜ける。用心に用心を重ねた移動で、追手を最大限警戒しながら歩き詰める。
手持ちに金銭食料の類などない。
ここまでに口にしたのは道中の川の水のみ。
時折休憩を挟みながらも。ひたすら急いで別の街を目指していた。
この先に、王都近辺なのに寂れた山村があったはずだ。そこで飯だ。とにかく飯。んで、一晩寝たら港町まで直行だ。追跡はされてるだろうからな。奴らが来る前に王国からおさらばしねぇと。
慌てて王都を出たため、手持ちの物資は何もない。
金は元からないが、旅路に食料がないのは非常に厳しい。道中で小動物の一匹でも狩れればいいが、都会育ちのクロックに狩りの技術などない。捕らえたところで捌き方を知らない。
山菜の類ならそこら辺りに群生している。
だが生憎クロックに食用かどうかを見分ける知識や調理技術などない。
店でそのまま売られている果物なら手を付けられるだろう。
しかし、そんなものは都合よく道中で見つからない。クロックの胃袋は他人からの供給だけで成り立っている。
あー、くっそ。腹減ったわマジで。
体力なんかとっくに限界だっつーの。
込み上げる苦痛に悩まされながら山道を歩く。
およそサバイバルに向いているとは言えない人間だ。しかし疲労と空腹に耐えて逃亡を続けるだけの精神力は持ち合わせている。今日に至るまで、生き汚い人間だと自覚できるだけの人生を歩んできた。
ちょっとヤリ捨てした女に襲われたくらいでは死んでやったりしない。
その程度で生きることを諦めるなら、盗賊稼業なんてやってこられない。
「とはいえ……だ。さすがに相手がヤバすぎんだろ。マジで勇者かよ」
逃亡する道中で何度も考えてきた問答だ。
勇者アンナ。よく見えなかったが、エスケープ時の魔力発光に浮かんだ彼女は驚くほどの美人だった。
しかし、その顔は当然見知らぬ女だった。
本当に勇者であるかも分からない。実力に関しては底が知れないほど圧倒的であるため、信憑性は高い。
そして重要なのが、クロックを恨んでいるということだ。
あん時はまったくもってサッパリ微塵も覚えがなかったんだがな。冷静に考えたら、思い当たる節がなくもないっていうか。
ここに至るまで三日も経っている。考える時間は十分にあった。
まず、可能性のありそうな時期の見当だけはついた。
暗闇のせいで分かりにくかったが、緊急離脱時に見た彼女の顔から、ある程度年齢を推定できた。
驚くほど整った顔立ち。灰髪に青い瞳で、身長はあまり高くない。
年齢はおそらく十代の半ばから後半といったところだろう。クロックは今年で三十を迎えるわけだが、あの年頃の娘に捨てられたと言われる覚えはない。
あれほど見目麗しい名花だ。組み敷いたのなら覚えていないわけがない。
それでも尚忘れるにしても、完全に忘れ去るほど昔の話なら十年は前ということになるだろう。しかしそれだと当時の彼女の年齢はどうなる。一体何歳のガキをヤったという話だ。生憎とそんな趣味はない。
そうなると、彼女の言う転生とやらを仮定する必要がある。
あくまで仮定だ。もし死んで即転生したとすれば、前世の彼女との関係は今の彼女の年齢を差し引いたくらいの頃になるだろうか。
彼女の見た目は精々十五から二十歳辺り。
仮に十五年くらい前に知り合いだったとするなら。
可能性はある。そのくらいの時期なら既に女癖の悪さがあったことは覚えている。
「マジで捨てた女だったらどうしようもねぇんだが」
若い時から雑に生きていた。
正直色んな女に手を出していたと思う。捨てられたと言われれば、否定できない奴だっていただろう。
しかし死んだと言われると……これが分からない。
確かに女の扱いは良くなかったかもしれない。だが死に追いやるような真似なんかした覚えがない。
……知らねぇとこで飛び降りしましたとかはやめてくれよな。
日が傾き、空が赤く染まり始める。
獣道を抜けて周囲を確認し、山道に入る。
そのまま真っ直ぐ突き進むと、王都に比べて時代が百年は遅れてそうな辺鄙な村に到着した。
ここに来るのはかなり久しぶりだ。
相変わらず何もねぇ村だな。
古い木造住宅が立ち並び、ところどころに朽ちた廃墟が交じっている。
村の門は、どれほどの歳月が経っているのかも分からないほど朽ちている。
山の中に隠れ潜むような位置にあるこの村は、交易がまるでないせいか発展が著しく遅れている。端的に言っていつ廃村になってもおかしくない場所だ。
人を探して食料を……。あー、ダメだ。まだ安心していい状況じゃねぇのに。
村に着いた途端、強い眠気が襲ってきた。
人がいる場所に入ったために、心のどこかで安心感でも得たのか。
連日連夜の移動で、蓄積された疲労は限界にきている。
追手から逃げ切れたわけでもないのに、人心地つこうと身体が求めてくる。
こりゃダメだ。耐えられん。
食料確保も大事だが、一旦休むしかねぇ。
もうそれ以外何も考えられん。目ぇ閉じたら寝ちまう。
朽ち果てた家屋を視界に捉え、勝手に侵入する。
壁の一部がなく、屋内に人の住んでいるような形跡は見られない。
板張りの壁と、朽ちて穴だらけの屋根。おそらく使われなくなって何年も経っているのだろう。完全に捨てられた廃屋だ。
ほぼ地面に等しい床に寝転がる。
休もう。休みたい。眠すぎて、何もかもがどうでもいい。
あらゆることを後で考えることに決めると、すぐに意識を手放した。
ハッとなって起き上がる。
思いっきり眠りこけてしまった。
辺りは見回すまでもなく真っ暗だ。
日が落ちてからどれほどの時間が経過したかも分からない。
腹減りすぎてやべぇ。
そろそろなんか食わねえと死にそうだ。
眠気を解消できたものの、今度は強い空腹感に襲われた。
さてどうしたものか。魔獣に追われて荷物を落とした、などと言い繕って食料を村人から分けてもらおうと算段を立てていた。だが、こんな時間帯に訪れる客人など怪しいの一言に尽きる。まず家の扉すら開けてもらえないだろう。それどころか、周囲の静けさから考えても村民たちは寝静まっているのではないだろうか。
中途半端な時間まで眠りこけてしまった。
お陰で色々と面倒な状況だと悟る。
冷静かつ穏便に事を済ますなら日の出まで待つ方がいいだろう。しかし空腹感が焦りをもたらし、今すぐ動きたいという衝動も湧いている。
如何ともし難い現状に、苛立ちが募ってくる。思考を上手くまとめられない。
「────」
ふと、すぐ隣から微かに息遣いを感じた。
「…………あ? 誰だ?」
いつからそこにいたのか。
振り向くと、部屋の隅に三角座りをした人影があった。
穴開きだらけのあばら屋。
隙間から差す月明りが、人影の長い髪を照らしている。
女だろうか。まだ若いのか、体格はかなり小さく見える。
顔は分からないが、ジッとクロックの方を向いている。
「……あぁ、ここはお前の家だったか? 悪いな、ちょっと借りてたんだよ」
髪が揺れる。
薄暗くて分かりにくいが、ふるふると首を横に振っているようだ。
良いのか、嫌なのか、違うのか。
首だけを振られても分からない。
「お前は誰だ? 名前は?」
「…………」
少女らしき影は再び首を横に振った。
名前を聞かれて首を振る。言いたくないという意味だろうか。言葉でのやり取りが進まず悶々とする。
……コイツ、もしかして。
何故喋らない。少女の反応に首を傾げたいところだが、経験上からクロックはすぐに可能性に思い当たった。
「喋れないのか」
そう問いかけると、人影はコクリと頷いた。
精神的な理由。肉体の損傷。持って生まれた枷。封印。契約の代償。
どうやら何かしらの理由で話そのものができないらしい。
人影が首を傾げる。
その僅かな仕草が、暗がりに浮かぶ輪郭通りに若い少女の雰囲気を漂わせている。
あばら屋なんぞに住むなんて浮浪者だろうか。
若いうちから苦労しているんだなと一瞬考えるが、月明りが彼女の肩に他者の所有物の証を映しだしていることに気付いた。
「……奴隷なのか。奴隷がこんなところにいていいのか? それとも、ここがお前の家なのか?」
再度首を縦に振る。
つまりここに住んでいるということか。
奴隷の扱い方は人によって大きく差があるだろうが、彼女の場合は虐げられている部類のようだ。
ここは人が住むような家じゃない。辛うじて屋根と壁が残っているだけだ。
まともな寝床が与えられなければ人間はすぐにダメになる。人的資源の使い方としては失敗していると言わざるを得ない。
それはさておきとして、なかなか良い情報を手に入れた。
クロックは片眉を吊り上げる。
「お前の飼い主はどこだ?」
質問をすると、奴隷はあばら屋の正面を指した。
二階建ての貧相な木造の家がある。
奴隷を買えるほどの金持ちの家には見えない。
周囲のボロい家に比べても、そう大した違いはない。
しかし、事実として彼女を抱えているのだから、少々なりとも羽振りがきくんだろう。もしかすると、家にこだわらないだけかもしれない。
こちとら逃亡中の身で、色々と入用だ。少しばかり融通してもらうとしよう。
それにしたって奴隷のこの扱いはないと思うが。
ポキポキと首を鳴らし、立ち上がる。
すると、隣からスッと何かを差し出された。
木を繰り抜いたような器だ。中には水が注がれている。
涙ぐましいというか、侘《わび》しすぎんだろ。
どういうわけか気を使われているらしい。
器を受け取り、中身を一息に飲み干す。
木を齧ったような味がした。
いや、器から木の香りがするだけだ。水に味なんかない。
白樺か、杉か。その辺りの知識はないが、口を付けるのに向いた容器ではない。
立ち上がり、自分の状態を確認する。
立ち眩みのようなものは起きていない。無理を押して移動してきたが、体調は比較的良好か。強い空腹感と気怠さはあるが、これくらいならまだ何とでもなる。
体力は怪しいが、ひ弱な村民の対処くらいどうとでもなるだろう。
武器は携帯済み。何だかんだで付き合いが長くなってきた相棒一本と、虎の子スキル。
いつも通りだ。あとは運と判断力に身を任せるのみ。
──よし、いくか。