女友達は明日、人妻になる

著者: ういろう

本販売日:2026/08/21

電子版配信日:2026/09/04

本定価:957円(税込)

電子版定価:957円(税込)

ISBN:978-4-8296-4891-9

──三十歳までお互い独身だったら結婚しよう。
そう約束していた女友達は明日、他人妻になる。
学生の頃から片想いしていた幼馴染・浅見涼奈と
結婚式前夜に再会し、挙式先のホテルで二人きりに。
「今夜だけなら、浮気じゃない、から……」
その日限り、想いが結ばれる夢のひとときが……

目次

プロローグ 約束 三十歳まで独身だったら

第一章 再会 今夜だけなら浮気じゃないから

第二章 願望 私に好きって言わないで

第三章 追憶 忘れられるわけない

第四章 誤解 ずっと待ってたの

第五章 至福 お嫁さんみたいじゃない?

エピローグ 結婚 いつも隣にいてくれた君へ

本編の一部を立読み

プロローグ 約束 三十歳まで独身だったら

「私たちさ……もし、三十歳までお互い独身だったら、結婚しよっか」

 鈴を転がすような透明な質感の声が、夜の闇のなかへすうっと溶けていく。
 俺──岩倉朔矢のすぐ隣では、緩く巻かれた上質な絹のごとき艶髪がふんわりと揺らめき、薄い唇が滑らかに動いていた。
 まるで、いや比喩ではなく本当に、一枚の人物画がそのまま魂と体を得てしまったかのような、輪郭の滲む幻想的な瞬間だった。
 彼女の名前は、浅見涼奈。
 俺の長年の女友達──幼馴染で、そして想いを寄せ続けているただ一人の相手。
 二十五歳の同窓会の日。俺たちはこっそりと会場を抜け出して、海浜公園のベンチで夜風に当たっていたのだ。
「三十まで、独身、なら………………」
 間の抜けた声で、そのフレーズを反復する。
 なぜだろうか。彼女の紡いだ言葉は耳元ではまだとても温かかったのに、一拍遅れて心の芯にまで達し、意味が追いついてくると、まるで別の言葉のように感じられた。どこか借りものめいた、不思議な淀みなさのような。
「うん……あ……あくまでも、その、二人とも余りものになっちゃったらの話、だけど……私とじゃ、結婚するの、イヤ、かな……?」
 スズナはずいぶんとわかりきったことを聞いてくる。イヤなわけがない。
 ポケットのなかに差し込んだ俺の指先は、今まさに、その問いへの答え──婚約指輪の入ったベルベットの箱に触れているのだから。三十までなんて待てないし、待つ必要などない。
 ──だが、上目遣いで俺を覗き込む、ナチュラルメイクの不安げな瞳に見惚れてしまったせい……なのだろうか。不思議と、その手が自分のものではないかのように少しも動いてくれなかった。
「えっと、さっ、くん……? ……あっ、あはは、ごめんね。急に変なこと言って。……この話は忘れて?」
「い、いやいや、忘れないって。俺が万一余りものになったら、ちゃんと約束守れよな?」
 あだ名で俺を呼ぶ彼女に動揺を悟られぬよう、遠いところに視線をやりながら、少々おどけた調子で返事をした。
「…………うん。でも、きっと大丈夫だよ。……さっ君が選んでもらえる人だってこと、私が一番よく、知ってるから」
 選んでもらえる人、か。照れ隠しのお世辞なのだろうが、自分がスズナ以外の誰かに選ばれるなんて、思いもよらないことだった。俺が選ぶのはスズナただ一人だし、スズナもまたきっと俺を選んでくれる。
「スズナ。約束、絶対だぞ」
「ん……絶対、ね。私なんかで、いいなら……」
 自信なさげで、そっと気持ちを包み隠すようないじらしい仕草に、胸が締めつけられる。勇気を振り絞って、三十歳になったら結婚しようと告げてくれたこの幼馴染を、絶対に幸せにしてやりたい。そう思わされる。
「……最後に、少し砂浜、歩かない?」
 スズナはぶんと腕を振って勢いよく立ち上がり、儚い初雪を彷彿とさせる純白のパーティドレスが、月明かりを受けてことさらに揺らめいた。
 そのまま、すぐ近くの階段で遊歩道から浜辺に下り、二人で波打ち際を散歩した。脱いだヒールを片手に、常に俺の二、三歩先にいて、何も喋らないスズナ。
 前後一列の俺たちの間には、ただ寄せては返す波の音だけが響いていたが、これはきっと甘やかな疼きを鎮めるための時間なのだろう。
 風に吹かれて舞い上がる長い黒髪の束や、そうして帳が上がることでときおり視界に入るうなじを眺めていると、やがてどこまでも続くように見えた砂浜が終わりを告げ、別れ際、スズナがくるりとこちらに振り返った。
「──さようなら、さっ君」
 少しばかり茫漠とした、ピントを外したような映像。暗くてその表情の細部まではよく見えないが、きっとスズナのことだから、いつものように優しく目を細めて、春の陽だまりに咲くたんぽぽみたいに微笑んでいるのだろう。
 とにもかくにも、五年後だ。スズナと交わした約束が成就するそのときまで、俺はこの指輪を片時も離さず大切に温めておこう。

◇◇◇

 三十歳の誕生日をひたすらに待ち続けた五年という月日は、長いようで短いものだった。
 もちろん、あの約束をしたときにプロポーズしておけばという後悔がなかったわけじゃない。だが当時はまだ、理系の修士課程を出たばかりの新卒二年目だったし、指輪も無理を押し通して買ったものだった。
 だから、この五年は幼馴染を幸せにするための準備を整え、覚悟を決めて万全の状態で彼女を迎えに行くための時間。そう考えることにして、寝食を忘れてひたすら仕事に打ち込み、昇進を重ね、通帳の金額を膨らませた。
 そうしてちょうどまずは、四月が誕生日のスズナの方が先に三十歳を迎えようかという頃。計画通り、数年にわたる地方勤務を終えて東京本社への異動の目処が立ち、すっかり浮かれていた俺のもとに、一通の手紙が届いた。
 宛名を見ただけで、その差出人が誰であるかはすぐにわかった。
(スズナの字だな……)
 だが、SNSとかメールとか電話とか、もっと便利な意思伝達の方法をいくらでも採用することができるなかで、なぜあえて「手紙」なのだろうか……?
 そんな不穏な予感を胸に、封を切り、丁寧に折られた便箋を開いた。俺の視線は、他人行儀なご挨拶の言葉を無視して、憎たらしいほどの達筆で綴られた二文字へと吸い寄せられていく──。

「このたび、結婚することになりました」

 結婚。
 ──その瞬間、断頭台の刃がすとんと落ちるのを感じた。
 あとにはただ、十数年もかけて大事に育んできた想いが自分の体から切り離され、なんとも滑稽な姿で足元に転がっていた。

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