08/14 電子版発売

好きと言うには遅すぎて、身体を許すには早すぎた

電子版配信日:2026/08/14

電子版定価:880円(税込)

俺の家に毎朝来る世話好きな幼馴染・藍原翔子。
かけがえのない日常は、二年の冬休み明けに一変した。
無邪気で妙に距離感の近い転校生・一条カレン。
彼女が現れてから、翔子はやけに辛辣になったが……
放課後、唐突に翔子に唇を奪われ、流れで一線を超えた。
──互いに想いを口にすることもなく。
その日を境に、幼馴染との身体の関係が始まった。
もう純愛には戻れない。すべてが手遅れの青春ノベル。

目次

第一章 言葉より先に、身体を重ねて

第二章 余裕をなくした幼馴染に、激しく搾り取られて

第三章 誰もいない旧校舎で、はじめての──

第四章 生のまま繋がって、はじめて振った背中

本編の一部を立読み

第一章



 朝七時、冬の空はまだ重い灰色を帯びていて、街は冷たい沈黙に包まれていた。
 枕元で、翔子のスマホが静かにアラームを鳴らした。
 もっとも、それは翔子を起こすためのアラームではない。彼女はとうに起きて制服に袖を通し、鏡の前で最後の一本の髪の乱れをチェックしていた。
 完璧。
 スカート丈は校則通りの膝丈。ブラウスは第一ボタンまでしっかり留め、リボンは完璧に左右対称。毎朝欠かさず櫛を通すストレートヘア。
 どこに出しても恥ずかしくない、生徒会長・藍原翔子の完成形だ。
 このアラームは、別の意味を持っている。
 翔子は髪を結ぶ手を止め、スマホを取り上げた。
 ワンタップで発信。電子音が五回、六回と続いて、ようやく繋がった。
「……んー……もしもし……」
 眠りの底から引きずり出されたような声に翔子は小さく溜息をつく。白い息が宙に溶けた。
「起きなさい」
「……あと五分……」
「五分経ったらまた二度寝するでしょ。起きなさい。今すぐ。毎朝同じこと言わせないで」
 電話の向こうで、布団がゴソゴソと動く音がする。
 翔子は満足げに頷き、スピーカーモードに切り替えて姿見の前に戻った。止めていた手を動かし、髪を一つに結び直す。
「八時に出るから。遅れたら……」
「置いていく?」
 かすかに笑いの混じる声。眠そうなくせに翔子の言葉を予測してくる――十年以上の付き合いがそうさせるのだろう。
 翔子が少しだけ唇を尖らせると、鏡の中の自分も不満げな顔を返してくる。
「……待ってあげるから。感謝しなさいよ」
「はいはい、翔子様。……もう翔子がアラームでいいわ」
「アラーム扱いしないで。私は止めても二度鳴るわよ」
「うわ、辛辣。……でも否定できない」
 からかうような、それでいてどこか温かい声が耳に残った。
 玄関を出ると冷気が肌を刺した。マフラーに顔を埋め、白い息を吐きながら向かいの家を見る。
 ちょうど、扉が開いたところだった。
 朝陽が走ってくる。息を切らせ、髪を跳ねさせ、ネクタイを片手に握ったまま――いつもの光景だ。
「悪い、ちょっと寝坊した」
「だから言ったでしょ。あんた、何回目?」
 翔子は呆れた顔を作りながら朝陽の前に立った。
 シャツの襟が曲がっている。翔子は無言で襟を正して、ボタンに目をやった。
 取れかかっている。
「……またこれ。あんた、ちゃんとボタン見てる?」
「え、マジ? いつの間に」
 翔子は鞄から裁縫セットを取り出した。こういうこともあろうかと常に持ち歩いているものだ。
 針に糸を通す手つきは慣れたもので、朝陽は大人しく立ったまま作業を見守っている。
「……はい、終わり」
「マジ助かる。翔子がいないと俺、生きていけないわ」
「大げさ。というか、そろそろ自分でできるようになりなさいよ」
 そう言いながらも、翔子の唇がほんの少し緩む。
「大げさじゃないって。起こしてくれるのも、ボタン直してくれるのも、全部翔子じゃん。俺完全に翔子に依存してるよ」
「依存してる自覚があるなら直しなさいよ、その根性」
「無理。翔子がいる限り、俺は堕落し続ける運命なんだ」
「開き直るな。……まったく」
 翔子はネクタイを朝陽から奪い取ると彼の首に巻きつけた。結び方が甘いと分かっているから、最初から自分でやった方が早い。
 ぎゅっと結び目を整え、ポンと胸を叩く。
「よし。行くわよ」
 二人は並んで学校への道を歩き始めた。
「あのさ、翔子」
「何?」
「昨日の数学の宿題、やった?」
「やったわよ。……やってないの?」
「いや、やったんだけど、答え合わせしたくて」
 絶対やっていない――その証拠に朝陽は明らかに目を逸らしている。
 でも翔子は何も言わずに鞄からノートを取り出した。
「一時間目始まる前に返しなさいよ」
「マジ助かる! 翔子、女神!」
「女神じゃなくて女王よ。間違えないで」
「どう違うんだよ」
「女神は誰にでも優しいでしょ。私はあんたにだけ厳しいの」
「俺にだけ? それって最高じゃん。一生ついていきます」
 朝陽がへらへらと笑う。翔子はその笑顔を見上げて、ふんと鼻を鳴らした。
 登校中、朝陽は翔子のノートを覗き込みながら歩いた。翔子は朝陽が電柱にぶつからないようさりげなく軌道修正してやる。
 校門が見えてきた。
 その手前で、足が止まった。
 体育教師と風紀委員の腕章をつけた二年生が三人、昇降口の手前に陣取っている。服装検査だ。
 翔子は横目で朝陽を見た。
 腰には茶色い編み込みの革ベルト。私服用の、明らかに制服に合わない代物だ。
「シャツ出して」
「え?」
「シャツの裾。出して。ベルトが見えなくなるくらい」
 朝陽が「あー」と気の抜けた声を出しながら、シャツの裾をベルトの上にかぶせる。焦る様子もない。
 その仕上がりを一瞥し、翔子は黙って前を向いた。
 風紀委員の前を通る。翔子が前に出た。背筋がまっすぐに伸びた完璧な制服姿。教師の目は自然とそちらに向く。
「おはようございます、先生」
「おう、藍原。ご苦労」
 教師は翔子に軽く頷き、それから朝陽をちらりと見た。シャツの裾がだらしなく出ている。何か言いかけた口が、翔子の存在を認めて止まる。
「……小野、シャツくらいちゃんと入れろよ」
「はい、すみません」
 それで終わった。何食わぬ顔で歩く朝陽に、助けられた自覚はないらしい。
 翔子は靴箱を開けながら振り返りもせずに言った。
「明日までに、まともなベルト用意して」
「あいよ。昨日切れちゃってさ、とりあえずこれで来た」
「あと、シャツは入れなさい。だらしない。隣を歩く身にもなりなさいよ」
 自分で出せと言ったくせに。その矛盾を朝陽が突いてこないのは、たぶん気づいてすらいないからだ。
 教室に着いた。朝陽は自分の席に座って借りたノートを広げた。翔子も自分の席に鞄を下ろす。
 シャーペンのノックを二回。翔子が予習ノートを開く頃には、朝陽はもう後ろの席の男子と喋り始めていた。
「てかさ小野、毎朝藍原と一緒に来てるし、ノートも毎回借りてるし。お前ら付き合ってんだろ、もう」
「付き合ってねえよ。幼馴染。向かいの家」
「いやいや幼馴染にあそこまでやるか普通。藍原、美人なのに他の男にはマジで塩じゃん」
「翔子は――なんていうか、姉ちゃんみたいなもんだよ。世話焼きなだけ。それ以上でもそれ以下でもない」
 姉ちゃん。
 翔子のシャーペンがノートの上で止まった。それ以上でもそれ以下でもない。この言葉をもう何度聞いただろう。
 誰に聞かれても朝陽は同じ言葉、同じ声の調子で迷いのない平坦な否定をする。
 間違ってはない。付き合ってもないし、告白したこともされたこともないただの幼馴染。
 翔子はシャーペンを握り直した。ノートに視線を落とす。
 分かっている。分かっていてボタンをつけた。分かっていてベルトを隠した。分かっていて毎朝電話をかけている。
 分かっているのに、やめられない。
 翔子はホームルームが終わる前から鞄の中身を整えていた。数学の教科書、ノート二冊、赤ペン。朝陽の分の問題集も入っている。
 後ろから抑えきれない欠伸の音が聞こえて、翔子は小さく息をついた。
 チャイムが鳴った。翔子は振り返りもせずに立ち上がった。
「行くわよ」
「どこに」
「うち」
 それだけで十分だった。朝陽は来週に迫った数Ⅲのテストのことなんか棚に上げたまま自分からは一ミリも動かない人間で、だからこうして翔子が声をかけるまで鞄にも手を伸ばさずに座っている。
 廊下を並んで歩く。翔子が先に出て、朝陽がついてくる。いつからこの並びなのか覚えていない。ただ背中のすぐ後ろに朝陽の気配があると安心する。
 暗くなった家路を二人で歩いた。
 翔子の家は朝陽の家の真向かいにある。通学路の延長に翔子の家がある。
 翔子が鍵を開けて先に入り、朝陽がそのまま後ろから靴を脱いだ。
 玄関の隅に、朝陽のスリッパがあった。グレーの、少しくたびれたやつ。いつ置かれたのかもう誰も覚えていない。
「ただいま」
「お邪魔します」
 台所から鍋の音がした。翔子の母、美月がコンロの前に立っている。振り返らずに声だけ飛ばしてきた。
「カレー。朝陽くんの分もあるから」
「ありがとうございます。……めちゃくちゃいい匂いしますね」
「牛すじ。朝から煮込んでるのよ、四時間」
「四時間!?」
 朝陽が素で驚いた声を出した。母は鍋の蓋を少し持ち上げて、湯気の向こうから笑った。
「圧力鍋使えば一時間で済むんだけどね、うちのお父さんがうるさいのよ。圧力鍋のカレーは邪道だって。あの人だけは絶対に譲らないの、牛すじカレーのことになると」
「分かります。カレーは煮込む時間がスパイスですよね。おじさんのこだわりに、おばさんの腕前。最強じゃないですか。俺、ここのカレーで育ったようなもんですもん」
「やだ、上手いこと言っちゃって。でも分かるわ。翔子なんか、ルーは何でもいいって言うのよ。信じられる?」
「翔子、味覚死んでんの?」
「カレーで美味しくないことなんてある? 全部美味しいでしょ」
 翔子がキッチンの入り口から口を挟むと母と朝陽が同時にこちらを見て、それから顔を見合わせた。あんたには分からないだろうけど、という顔で。
「カレーに無関心な人間は信用できないわよねえ、朝陽くん」
「ですよね、おばさん。翔子はいつも食べてるから分からないんだよ」
「あんたたち、いつから同盟組んだのよ」
 翔子は呆れた声を出して二人の間を通り抜けた。そのとき、母が片手を伸ばして後頭部をくしゃっと撫でた。
 黙ってその手を受けた。歩きながら母親の指が髪を通り抜けていくのをそのまま受け入れる。
 二階の自室に入った。
 ローテーブルの上に朝陽の参考書が前回のまま置いてある。壁際の棚には朝陽の筆記用具と付箋の束。
 翔子が制服のまま座布団に座ると、朝陽も向かいに腰を下ろした。ローテーブルを挟んで互いのノートが見える、いつもと同じ距離と配置。
 翔子が問題集を開いた。
「三十四ページ。積分の応用。ここ、先週やり残したところ」
「まだそこからかよ……」
「当たり前でしょ。問三で詰まって、そのまま逃げたんだから」
 朝陽は黙ってシャーペンを取り出して問題を読み始めた。
 しばらく、ペンの走る音だけが部屋に満ちた。翔子は自分の予習を進めながら時折朝陽のノートを横目で確認する。
 解けてはいるが途中式を飛ばしている。翔子なら絶対にしない書き方だった。
 一通りの復習が終わった頃、朝陽がペンを置いて伸びをし背骨を軽く鳴らした。
「なあ、翔子」
「何」
「大学ってさ、一人暮らしする人多いじゃん」
 翔子の視線がノートの上で止まった。
「……で?」
「いや、先輩がさ。一人暮らし始めたら自炊覚えたとか言ってて。俺もやってみたいなって」
 翔子のシャーペンがノートの端に小さな点を打った。
「あんたが自炊……」
「何、その間。スパゲッティくらいは作れるってば」
「茹でてレトルトのソースかけるだけでしょ。それは自炊とは言わない」
「いや茹でるのも立派な調理だって」
 朝陽はあっけらかんと笑った。
 一人暮らし。その言葉が翔子の胸の底で冷たく沈んだ。
 毎朝カーテンを開ける向かいの窓が、空になる。
「あんた、脱いだ服そのまま床に置く癖、直ったの?」
「……いや」
「靴下は毎回裏返し、パーカーは椅子の背もたれ。制服も脱いだらそのまんまでしょ。あの部屋の調子で一人暮らしなんかしたら、一週間で床が全部洋服で埋まるわよ」
「いや、洗濯くらいやるし」
「やらないわよ。あんたが自分から動いたの見たことない」
 言いながら声が少しずつ硬くなっているのを自覚した。説教したいわけじゃない。
 ただ、怖かった。
 ダメなところを並べ立てて必死に引き留めようとしている自分が。
「だから、別に無理して出ることないでしょ。通える大学にすれば」
「まあ、そうかもな。実家からでいいか」
 朝陽はもうノートに目を戻していた。翔子がどれだけ声を硬くしたか、たぶん聞こえてもいない。
「……そうしなさい」
「でもまあ、翔子と同じとこはさすがに厳しいかもなあ。あそこ判定Dだし」
 自嘲ですらなく、翔子と自分は違うレベルにいるということを当然のこととして軽く口にしている。
 その無邪気さが腹立たしい。
「無理って、誰が決めたの」
 翔子の声は一段低かった。朝陽が顔を上げると翔子がこちらをまっすぐ見ていた。
「いや、だって翔子の志望校――」
「私が決めたの? 先生が決めたの? 誰があんたに無理だって言ったのよ」
「いや、誰もそうは言ってないけど、普通に考えて――」
「普通に考えなくていい。あんたは自分を過小評価しすぎなの。いいから私の言う通りにしてればいいの。高校受験のときだって私と一緒に勉強したでしょ」
 それ以上は反論してこなかった。
「来年の春までに判定をBまで上げる。数学であと二十点取れれば届くのよ。スケジュールは私が組むから、あんたは言われた通りにやりなさい」
「……マジで言ってんの?」
「マジに決まってるでしょ。いつ私が冗談言ったことある」
 朝陽は何か言いかけてやめた。こうなった翔子には逆らっても無駄だと、たぶん分かっているのだろう。
「……はい」
「よろしい」
 翔子は視線をノートに戻した。シャーペンを握る指に少しだけ力が入った。
 判定をBまで上げる。口にした自分の言葉の重さを翔子は噛み締めていた。本当にできるのか分からない。でもできないと認めることは翔子にはできなかった。
 朝陽を手放す未来を、一秒たりとも想像したくなかったから。
 階下から母の声が上がってきた。
「二人とも、カレーできたわよ」
「やった」
 朝陽が腰を浮かしかけたのを、翔子は片手で肩を押さえた。
「問三、まだ途中でしょ。終わるまでダメ」
「鬼」
「聞こえなかった。もう一回」
「……何でもないです」
 ほんの少しだけ口元を緩めて、階段に向かって声を返した。
「十分で降りる」
 母の返事は聞こえなかった。たぶん最初から十分くらいは織り込み済みなのだろう。
 いつものことだから。

 ***

 生徒会室を出たのは五時過ぎだった。予算案の修正差し戻し三件、送別会の進行表の最終確認が一件、備品発注リストの承認が二件。
 すべて予定通りに片付けて最後の書類に判を押し、鞄を手に取る。
 廊下に出ると図書室の方から朝陽が歩いてくるのが見えた。鞄を肩にかけて、片手にコンビニの袋を持っている。
「終わった?」
「とっくに。あんたこそ、ちゃんと勉強してたの」
「してたって。数Ⅲの問題集、三ページ進めた」
「三ページ……二時間で三ページ」
「いいだろ別に。やっただけマシじゃん」
 翔子は何も返さなかった。朝陽はその沈黙の意味を正しく読み取ったのか、黙って隣に並んだ。
 コンビニの袋からチョコレートを一つ取り出して翔子の方に差し出す。翔子は歩きながらそれを受け取り、包装を剥いて口に入れた。
「……ありがと」
 口の中に広がる甘さに、ほんの少しだけ声の角が取れた。
 校門を出て冬の暗い道を並んで歩く。街灯の光が二人の影を長く伸ばしている。
 いつもの並びが、帰り道でも変わらない。
「なあ、翔子。来週の日曜、空いてる?」
「午前はお母さんの買い出しに付き合うけど」
「じゃあ午後は? スニーカーそろそろ買い替えたくてさ。一緒に来てくれない?」
 翔子は横目で朝陽の足元を見た。白かったはずのスニーカーがだいぶくたびれている。
「まあ、確かにそろそろ限界ね。いいわよ、付き合ってあげる」
「マジ? ありがと。あとさ、ついでに服も見てくれない? 翔子に選んでもらった方が確実だし」
 翔子の口元が一瞬だけ動いたが笑いにはならなかった。マフラーに顔を深く埋めた。
「……あんたのクローゼット、まだ変な英語のシャツ残ってるでしょ」
「あれは着心地いいんだって」
「外に着ていくのが問題なの。全部捨てるから覚悟しなさい」
「……お手柔らかにお願いします」
 朝陽が呆れたように笑う。その声を聞きながら、翔子はマフラーの中でこっそりと唇を緩めた。
「じゃあ、日曜の一時に」
「遅れたら置いていくから」
「いや置いていくって、俺が声かけてんだけど」
「じゃあ遅れないようにしなさいよ」
 家の前に着いてそれぞれの玄関に分かれるまで、それ以上の会話はなかった。
「おやすみ、翔子」
「明日、遅刻しないでね」
 朝陽が手を上げて家に入っていくのを見届けてから、翔子は自宅の玄関を開けた。
 靴を脱いでリビングを通り過ぎるとき、テレビを見ていた母が声をかけてきた。
「明日の朝、雪かもしれないって」
「雪?」
「積もるかもって言ってたわ」
 翔子は階段に足をかけたまま一瞬だけ向かいの家の方を見た。カーテン越しに朝陽の部屋の明かりが見える。
「……早めに起こさないと。雪だと行くのに時間かかるだろうし」
 母は何も言わずにテレビへ視線を戻した。
 部屋に戻ってベッドに座るとスマホが震えた。朝陽からのLINE。
『日曜楽しみにしてる』
 画面の文字を二度、読み返して返信した。
『あんたのセンスで選ぶと無駄遣いになるから、私が決める』
 送信ボタンを押し、裏返したスマホをベッドの上に放る。
 カーテンの隙間に目を向けた。向かいの家の窓の明かりが消えるのは、いつも翔子より少しだけ早い。
 今夜もたぶん、そうだろう。

 ***

 日曜は一日中スニーカーを選んで終わった。朝陽はもっと遊びたそうだったが、翔子はそれでよかった。
 誰にも邪魔されず二人で選んだという事実があれば、それだけで十分だった。
 そして月曜の朝。
 いつも通りに朝陽を起こして並んで登校する。朝陽の足元には昨日買ったばかりの白いスニーカー。
 歩くたびにまだ馴染んでいない硬い音がする。翔子のローファーの横で、傷一つない白が朝の光を弾いていた。
 朝陽は時折足元を気にしていた。汚さないように歩くその姿を見て翔子は小さく息をつく。
 自分の選んだものが朝陽の一部になっている。その単純な事実が、今はただ心地よかった。
 教室に入ると、いつもと違う空気があった。ざわめきが普段より大きくて、男子たちの声が妙に弾んでいる。
「今日転校生来るらしいぞ」
「この時期に?」
「女子だって。しかもめちゃくちゃ可愛いって、隣のクラスのやつが朝から言ってた」
 翔子は鞄を机に置きながらその雑音を耳の端で拾った。
 転校生。三学期のこの時期に珍しいとは思ったが、それだけだった。
 予鈴が鳴り担任が教室に入ってきた。いつもより少し改まった顔つきで教壇に立つ。
「ホームルームを始める。静かに」
 ざわめきが引いていく中で担任は一度だけ教室を見回してから言った。
「今日は新しい仲間を紹介する。入ってきなさい」
 教室のドアが開いた。
 最初に目に入ったのは膝上で揺れるスカートの裾だった。
 校則ギリギリの長さだが着こなしは洗練されていて、指定のブレザーをきちんと着てリボンも結んである。なのに何かが翔子たちとは違う。
 長い茶色の髪は緩く巻かれ、歩くたびに毛先が揺れる。
 教室に入ってきた少女は急ぐ素振りもなく、ゆっくりと室内を見回した。
「一条カレンです。よろしくね」
 囁くような音量なのに教室の隅まで届く、妙に通る声だった。
 男子が色めき立つのが翔子の耳に入った。隣の席の男子が身を乗り出している。後ろで誰かが「やべえ」と漏らした。
 翔子はペンを握ったまま、カレンの顔を見ていた。笑っている。にこにこと、人懐っこく。
 だが、その笑顔のまま教室を見回す目の動きは、妙に落ち着いていた。転校初日の緊張がまるでない。一人ひとりの顔を確認するように視線がゆっくりと教室を舐めていく。
 翔子はふいと視線をノートに落とした。目が合いたくなかった。理由は分からない。
 ただあの視線に捉えられたくないと、身体が先に判断した。
 担任が黒板に「一条カレン」と書いた。
「一条は東京からの転校だ。みんな、仲良くしてやれ。――席は、小野の隣が空いてるな。一条、そこに座れ」
 朝陽の隣で、翔子の斜め後ろだった。
 カレンは「はーい」と間延びした返事をして朝陽の隣の席に向かった。椅子を引くとき、朝陽の方を向いてにっこりと笑った。
「よろしくね」
「あ、おう。よろしく」
 朝陽が返す声はいつも通りで、翔子はそのやり取りをノートに目を落としたまま耳だけで拾っていた。
 一時間目の数学が始まった。翔子は板書を取りながら背中のあたりで交わされる小さなやり取りに意識を引っ張られていた。
「ねえ、今ってどこやってるの?」
 カレンの声が後ろから聞こえた。教科書を開いてもいないのだろう。
「あー、ここ。七十三ページ」
「ありがとう、朝陽」
 名前で呼んだ。初対面で呼び捨てだった。
 翔子は振り返らない。ただ黒板を向いたまま、背後で交わされる二人の会話を、耳の裏が粟立つほどの鮮明さで聞いていた。
 休み時間になるとカレンの周りに人が集まった。転校生効果というやつだ。どこの学校にもある、最初の一週間だけ続く一過性の祭り。
「ねーカレンちゃん、前の学校ってどんな感じだった?」
「うーん、普通かな。ここより人数多かったけど」
「彼氏とかいた?」
「いたよ。でも引っ越しで別れちゃった」
 如才ない受け答えで、誰にでも笑顔を向けて名前を聞かれたら相手の名前も聞き返す。
 翔子は席に座ったまま文庫本を開いていたが、ページは進んでいなかった。
「ねえ朝陽、この辺でいいカフェとかある? 放課後行けるような」
 カレンの声がまた朝陽に向いた。
「カフェ? 駅前にスタバあるけど。あと商店街の方に個人のやつが一軒」
「個人の! いいね、そういうの好き。今度連れてって」
「え、まあいいけど」
「約束ね」
 翔子は文庫本のページを一枚めくった。文字が頭に入ってこなかった。
 昼休みになって翔子はいつも通り朝陽と弁当を食べていた。教室の端、席を二つくっつけて向かい合わせにする配置がもう何ヶ月も変わっていない。
 翔子が弁当箱から唐揚げを一つ、無言で朝陽の弁当箱に移す。朝陽も無言でそれを食べた。
 このやり取りに会話は不要だ。翔子が多めに作ったおかずが、毎日一つか二つ朝陽の弁当に移動するのは、呼吸と同じくらい自然なことだった。
「あ、朝陽」
 声がした方を見るとカレンがコンビニのおにぎりとサラダチキンを手に持って歩いてきた。
「一緒に食べていい? まだどこで食べたらいいか分かんなくて」
 さっきまで女子の群れに囲まれていたくせに、カレンは無防備に眉を下げてみせた。
「いいよ。翔子もいいだろ?」
 翔子は小さく息を吸い込み、優等生の顔を貼り付けた。
「もちろん。どうぞ」
 カレンが「えへへ」と笑って、朝陽の隣に椅子を引き寄せる。
「翔子ちゃん、お弁当自分で作ってるの? すごいね」
「少しだけ。あとは母よ」
「そっか。でも、朝陽にもおかず分けてあげてるんだね。面倒見がいいっていうか、なんかお母さんみたい」
 翔子は卵焼きを噛みちぎった。
「……母親じゃないわ。幼馴染よ」
「だよね、ごめんごめん。でもなんかすごい安心感あるんだよね、翔子ちゃんって。朝陽もそう思うでしょ?」
「まあ、翔子には世話になってるし」
「ねー、分かる。頼りになるお姉さんって感じ」
 お母さんの次はお姉さん。カレンの言葉は褒め言葉の形をしていてどれも翔子を恋愛対象から遠ざける言葉だった。
 偶然なのか、意図的なのか。にこにこと笑っているカレンの顔を見ても読み取れない。
「カレン、それ昼飯少なくない?」
 朝陽がカレンのコンビニ飯を覗き込んだ。
「引っ越したばっかで、まだ台所の段ボール開けてないんだよね。しばらくこんな感じ」
 カレンが肩をすくめて笑う。その視線がちらりと朝陽の弁当に向けられた。
 朝陽が自分の弁当から唐揚げを一つ、カレンの方に差し出した。
「これ食べる? 翔子が作ったんだけど、コンビニだけじゃ足りないだろ」
「えっ、いいの? ありがとう」
 翔子の視界の端でカレンの箸が唐揚げをつまんだ。あの唐揚げは昨夜の夕飯の残りを、朝陽の分として多めに詰めたものだった。
 朝陽がそれをどう使おうと朝陽の自由だ。そんなことは朝陽の自由だ。胸の奥がすうっと冷えていくのを翔子は感じていた。
「美味しい。これ翔子ちゃんが作ったの?」
「こいつの唐揚げ美味いんだ」
「へえー。料理上手でお世話好きで、朝陽はいいお母さん持ったね」
「……ごちそうさま。生徒会の仕事があるから」
「え、まだ半分残ってるだろ」
「食欲ないの。あんたが食べていいわよ」
 翔子は弁当箱を朝陽の前に置いて席を立った。
 カレンが少し首を傾げて見上げてきたが翔子はそれに応えずに教室を出た。
 廊下の冷たい空気が頬を刺して、胸の奥でちりちりと焼けるような痛みが広がっていた。
 お母さん。幼馴染でも彼女でもなくお母さん。世話焼き。面倒見がいい。
 全部褒め言葉の形をしていて、全部翔子を朝陽の隣にいる女ではなく世話をする人間の位置に押し込める言葉だった。
『移動教室、資料室寄ってから行くから』
 廊下に出てから気づいた。言い忘れた。
 戻ればいい。でもあの教室に戻ったら、またカレンの隣で笑っている朝陽を見ることになる。
 翔子は立ち止まったまま、LINEを送った。既読はつかなかった。
 五分経っても既読はつかなかった。
 翔子はスマホをポケットにしまって、一人で資料室に向かった。
 いつもなら隣でうるさいくらいに喋っているはずの足音が、今日はなかった。
 そのまま六時間目が終わり、放課後になる。翔子は鞄を肩にかけた。
「朝陽、帰るわよ」
 声をかけると、朝陽がびくりとカレンから顔を離した。それから自分のスマホを取り出して、あっと声を漏らす。
「ごめん翔子。LINE来てた? 全然気づかなかった」
「別にいいわよ」
「いや悪い。資料室、プリントめっちゃ重かっただろ。帰りの鞄、駅まで俺が持つから」
 ふにゃりと申し訳なく笑う朝陽に、翔子は無意識に入れていた肩の力をすっと抜いた。
「そこまでしなくていいわよ」
 朝陽が立ち上がろうとしたとき、カレンの指が朝陽のシャツの袖をつまんだ。
「えー、もう帰っちゃうの?」
 甘えるような声、困ったような上目遣い。初日にやることではない。
 少なくとも翔子が知っている人間関係のルールでは。
 朝陽が一瞬動きを止めた。翔子にはその躊躇いがはっきりと見えた。
「授業は終わったから。帰るのは普通よ」
 翔子は朝陽にではなくカレンに向けて言った。
「翔子ちゃんって、朝陽のマネージャーみたい」
 カレンが小首を傾げた。
「マネージャーじゃないわ。幼馴染よ」
「知ってる。でも、なーんかそれだけじゃなさそうだなって。朝起こしてあげて、お弁当作ってあげて、帰りも一緒で。すごいよね、そこまでしてあげるの」
 カレンは指を折りながら数え上げた。一つ一つが翔子のしてきたことの羅列で、一つ一つが「してあげる」という言葉で包まれていた。
「幼馴染って便利だよね。呼んだらすぐ来てくれるもん。私も欲しいな、そういうの」
「……探せば」
「探すかなあ。でもさ、翔子ちゃんたちって見てるとペットみたいで可愛いなって」
 翔子のこめかみに血管が浮くのが分かった。
「……何ですって?」
「あ、朝陽がペットって意味じゃないよ? なんか、飼い主と飼い犬みたいだなって。翔子ちゃんが飼い主ね。すごく大事にしてるの伝わるし。ごめんね、変な言い方して」
 カレンはけろりと笑った。悪意があるのかないのかその境界線の見えない笑顔を、翔子は十数年の人生の中で目にしたことがなかった。
「朝陽。行くわよ」
 翔子は朝陽の腕を取った。力が入りすぎていることに掴んでから気づいた。
「いてっ、翔子、ちょっと痛い」
「……ごめん」
 手を離すと朝陽の腕に指の跡が赤く残っていた。それを見た瞬間、自分の行為の浅ましさが恥ずかしくなった。カレンに言われた通り、まるで飼い主がペットを奪われまいとしているかのような振る舞いだ。
「じゃあねー、朝陽。翔子ちゃんも、また明日ね」
 カレンがひらひらと手を振った。おまけのように付け足された自分の名前が、やけに耳に残った。
 廊下に出ると翔子は朝陽より先を歩いた。いつもは並んで歩くのに今日は隣に立ちたくなかった。
「翔子、なんか今日ピリピリしてない?」
「……あんたが浮かれてるからでしょ」
「浮かれてないって。カレンと話してただけだろ」
 ただ話していただけ。朝陽は何も悪くない。カレンも何も悪くないのかもしれない。
 悪いのはこの程度のことで胸が痛くなる自分だ。
 いつものような会話もなく、朝陽が話しかけてくるのを無視して翔子は黙って歩いた。
 家の前で朝陽と別れて自分の部屋に入り、鞄を投げるようにして椅子の上に置いた。
 制服を着替え、いつも通りに机に向かった。英語の予習、数学の復習。ノートも教科書も開いてあるのに、ページが一向に進まなかった。
 夕食を済ませ、風呂に入り、髪を乾かし終えた頃にはもう眠くなっていた。ベッドに潜り込んでスマホを手に取ると、夕食の時間に届いていた朝陽のLINEが目に入った。
『今日ごめんな。帰り無視されたの気にしてる。明日は一緒に帰ろ』
 翔子は画面を見つめた。唇を噛んで返信を打とうとして何度か文字を消して、結局これだけ打った。
『別にいいけど。もう寝る』
 充電ケーブルを挿してスマホを裏返しにしてサイドテーブルに置いた。画面を見ていたくなかった。
 目を閉じてもカレンの笑顔がちらついて消えなかった。

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