09/25 電子版発売

クールな美人妻は、見下していた無能部下に完敗する

著者: 黒しば星井

電子版配信日:2026/09/25

電子版定価:880円(税込)

クールな美貌の完璧主義者、26歳の既婚係長・白石凛。
軽蔑する無能部下・猪俣忠司と、二人きりで出張するはめに。
彼の意外な仕事ぶりや人柄を知り、徐々に信頼しはじめたが……
サシ飲みで酩酊した夜、ホテルに戻った途端、猪俣は豹変。
欲望を露わにした淫獣に、夫と桁違いの怒張で蹂躙された秘肉。
生で種付けされ続けた一晩で、飢えた人妻の女体はわからされた。
──すべてをオスに委ねて、本能のままに快感を貪る悦びを。
〈第36回フランス書院官能大賞・eブックス賞受賞作〉
応募原稿から大幅加筆! 16万字超の本格官能小説。

目次

第一話 エリート既婚女上司と無能独身部下

第二話 無能部下の意外な一面

第三話 二人きりの出張

第四話 淫獣豹変

第五話 醒めない悪夢

第六話 本当に最後の生ハメ

第七話 燻る不満

第八話 性処理契約

第九話 不穏な予兆

第十話 破滅の愛の巣

エピローグ

本編の一部を立読み

第一話 エリート既婚女上司と無能独身部下



 カツ、カツ、カツ──。
 磨き上げられた床にヒールの音だけが規則正しく冷たいリズムを刻んでいた。秒針の進み方と同じくらいに正確なその音が、この営業企画部一室を支配している。
 フロアに満ちる張り詰めた空気は、私が会議室から戻るとさらに密度を増し、キーボードを叩く音すら憚られるほどの静寂を生んだ。
 私の名前は、白石凛《しらいしりん》。弱冠二十六歳にして大企業で係長を務めている。
 短い黒髪、薄い紅の唇、切れ長の目は元来の冷たい性格をより際立たせている。タイトなスーツに包まれた体の線には、男たちから好奇の視線が集まる。が、わざわざ声をかけてくる馬鹿もいないので、特に気にしてはいない。
 自席に戻ると、液晶モニターの脇に置かれた書類の束が目に入る。寸分の狂いもなく、完璧な角度で揃えられた長方形。指先でそれを捲りながら、私はモニターに映る部下たちの進捗管理画面に視線を戻した。
 赤、黄、緑のステータスランプが、彼らの働きぶりを無機質に告げている。緑のランプを見ると、少しだけ心に平穏がもたらされた。
「……係長、失礼します」
 内線を取った部下の一人の声が、平静を装いながらもかすかに震えている。私はモニターから視線を外さずに応答した。彼の声のトーンだけで、報告の内容はおおよそ見当がついていた。
「猪俣《いのまた》さんがまた……契約書のフォーマットを最終提出用のものと取り違えて先方に送付してしまったようでして……」
 またか。
 心の奥底で、呆れを通り越した怒りの音がグツグツと煮えたぎる。
(これで今週三度目のミスだわ)
 私はゆっくりと息を吐き、苛立ちを霧散《むさん》させた。
 感情に任せて叱責《しっせき》するのは、最も非効率的な管理手法だ。それに彼に怒りをぶつけたところで意味がない。
「わかったわ。すぐに先方に謝罪と再送付の連絡を。修正版の資料は? 彼に私のデスクへ直接持ってくるように伝えて」
「は、はい! すぐに!」
 部下が安堵したように受話器を置く音が聞こえる。
 恐怖で支配するのは三流だ。合理性に沿って今すべきことをやれば必ず結果に表れる。女性として人を管理する立場になって以来、自分の中で心掛けていることだ。そして、そう自分に言い聞かせていないと、やってられないのも事実だった。
 スケジュールが狂っていく不快感を押し殺し、私は思考を切り替えるために席を立った。
 淹れたてのコーヒーがこの淀んだ空気を浄化してくれるかもしれない。休憩室へ向かうためブラインドで仕切られた通路の角を曲がった、その瞬間だった。
「うわっ!」
 突如、目の前に巨大な影が現れた。
 息を切らし、何かから逃げるように慌てふためいたその男の姿を認識した──その直後、私の身体は衝撃とともに宙に浮いた。
 猪俣忠司《いのまたただし》。書類の束を胸に抱え、鬼でも追いかけてくるかのような形相で走ってきた彼と、正面から激突したのだ。
「きゃっ……!」
 受け身を取る暇もなく、私の身体は床に叩きつけられる。
 硬い床に打ち付けられた衝撃と、彼のたるんだ巨体が分厚い肉の塊となって圧し掛かる。私は逃れることもできず、その不快な重みに押し潰された。
「係長!」
「大丈夫ですか!」
 オフィスが一瞬にして凍りつく。複数の部下の叫ぶ声が水中にいるかのように遠く、不明瞭に聞こえた。
 私の全意識は、身体にのしかかる不快な重みと、胸を鷲掴みにする無遠慮な手の感触に集中していた。
 スーツの薄い生地越しに、汗ばんだ男の手のひらの感触が生々しく伝わってくる。
 気遣いという言葉が彼の辞書に存在しないことを証明するかのような、その愚直なまでの圧迫感。そして、鼻腔を突く汗と安物の整髪料が混じり合った独特の体臭。吐き気が胃の底からせり上がってきた。
「……猪俣さん、どいてくれるかしら」
 我ながら驚くほど、感情を排した声が出た。怒りも、屈辱も、すべてを分厚い氷の下に封じ込める。
 私の声は彼の鼓膜に届くのに一拍の間を要したらしい。
「ひぃっ!」
 猪俣はまるで責め殺される前の小動物のような悲鳴を上げた。
 慌てて飛びのき、彼はその場で何度も、何度も、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように頭を下げ始めた。
「も、申し訳ありません! 白石係長! ごめんなさい! 本当に、その、わざとじゃ……」
 精気を失い、覇気のない顔。恐怖に支配されただけの、中身のない謝罪の言葉の羅列。
 先週も、先々週も、同じ角度で頭を下げていた。もうすでに何度も繰り返し見た光景だった。
 私はゆっくりと立ち上がり、部下の一人が差し出す手を借りることもなく、スーツについた見えない埃を丁寧に払い落とす。そして、深く長いため息を、その場にいる全員に聞こえるように吐き出した。
「はぁ……」
 彼の顔を見ていると、数年前の記憶が不意に、そして鮮明に蘇る。
 あれは、まだ互いに学生気分が抜けきらない新入社員歓迎会の喧騒《けんそう》の中だった。隣の席に座っていた同期の彼とは特に面識はなかった。そんな彼がビールジョッキを片手に、真っ赤な顔で私の前に立ち宣言した。
『白石さん、好きです! 付き合ってください!』
 周囲の注目を集めることもいとわずに叫んだ。
 私は一瞬の逡巡《しゅんじゅん》もなく、彼の熱情を一刀両断にした。
『無理です』
 それだけのこと。ただ、それだけのことだったはずだ。
 その後の彼の転落は、私の記憶に焼き付いている。社内で見かけるたびに、彼の顔からは光が消え、生気が失われていった。あの時別の返し方をしていたら──そんな考えが、ふとした瞬間に頭をよぎることがある。
 営業で使い物にならず、総務でも持て余され、最後は庶務に追いやられた。そしてこの春、「役立たず」の札を貼られたまま、私のチームに押し付けられてきたのだ。
「これが最後のチャンスだろう、同期のよしみで頼む」
 部長の疲れたような声が、今も耳の奥で響いている。
 鍛え上げてやろうと思った時期もあった。同期として見過ごせなかった。だが、彼の愚鈍《ぐどん》さは私の想像を、そして許容範囲を遥かに超えていた。
「……落ち着いて行動しなさい」
「は、はい……申し訳ありません……」
「いいわ。仕事に戻って」
 鳴り響く内線のベルが、この不毛な時間を強制的に終わらせた。
 私は猪俣に背を向け、再びヒールの音をフロアに響かせる。背後で彼がまだ何かを呟いている気配がしたが、振り返る価値もなかった。

◇ ◇ ◇

 外はすっかり夜の帳《とばり》が下り、高層マンションの窓からは、無数の窓明かりが点々と浮かぶ夜景が広がっている。
 俺は、クライアントから頼まれていたウェブサイトの最終調整を終え、大きく伸びをした。
 リビングを照らす間接照明の柔らかな光が磨き込まれた床に反射し、部屋全体を温かい色で満たしている。革張りのソファに深く身を沈めると、ふわりと、キッチンの方から鰹出汁の香りが漂ってきた。
 そろそろ、俺の愛しい妻が一日の仕事を終えて帰ってくる時間だ。
 カチャリ、と玄関のドアが開く。
 硬質だが耳に心地よい音。俺の穏やかな日常に待ちわびたリズムが響く。
「おかえり、凛」
「ただいま、涼介《りょうすけ》」
 リビングに入ってきた凛は、ふっと肩の力を抜いた。張り詰めていた緊張がほぐれたように見える。俺の前でだけ見せる、あの柔らかな輪郭だ。その変化の瞬間を独占できることが何よりの幸福だった。
「お疲れ様。ご飯、もうできてるよ」
「ありがとう。あー……本当に疲れた」
 ダイニングテーブルについた凛は、俺がよそった湯気の立つ味噌汁を一口すすると、心の底からほっとしたような、甘えたため息を漏らした。その白い喉が、こくりと動く。
「涼介の味噌汁は本当に美味しい……」
「それはよかった。今日の出来は我ながら上々だからね」
 今日の夕食は、鶏肉の照り焼きとほうれん草のおひたし。なんてことない家庭料理だ。
 けれど、凛はいつも美味しいと言って、まるで宝物を味わうかのようにゆっくりと、丁寧に箸を進めてくれる。
「ねえ、聞いてよ」
 きたきた、と俺は内心で微笑む。
 彼女がこうして、まるで子供のように唇を尖らせて仕事の愚痴をこぼす姿が俺は好きだ。
「今日、また猪俣が同じミスをやらかしてさ。本当に、あの人、なんなのかしら……」
「ああ、いつもの彼」
「しかも今日なんて、廊下でぶつかってきて、倒れた私の上に覆いかぶさったんだから」
 そこで凛は箸を置き、眉をひそめた。
「信じられないでしょ? この歳で、大人が会社で衝突なんて。それに、手つきがまた、いやらしくて……」
 凛はそこまで言うと、ふん、と鼻を鳴らしてビールをあおった。
 彼女には災難だが、ふくれっ面の表情も、また可愛い。
「ふふふ、それは災難だったね」
 彼女の形の良い唇から紡がれる、普段の姿からは想像もつかないような辛辣な言葉。それを、うん、うんと頷きながら聞いていると、彼女の険しかった表情が、少しずつ、本当に少しずつ、和らいでいくのがわかる。
 俺は彼女の言葉にただ、穏やかに相槌《あいづち》を打つ、この時間が何となく好きだった。
 愚痴とともに食事を終えた凛は風呂へと向かった。俺はそれを見送り、後片付けに取り掛かる。
 それにしても、と考える。彼女の口から零れる愚痴には必ずといっていいほど「猪俣」という名前が出てくるなと。今年の春からチームに加わったらしいが、もう一生分くらい彼の名前を聞いた気がする。
 凛から聞く猪俣という男の像は、いつもぼんやりとしていた。でかい図体で覇気がなく、何を考えているのかわからない──凛の言葉を借りれば「芋っぽい顔」らしい。
 正直、話を聞いていると、叱られているのはむしろ自分のような気さえしてくる。会社勤めをしていた頃の不出来な自分だ。要領の悪さといい、とても他人事のようには思えないのだ。
 まあ、さすがの自分も猪俣くんほど怒られた記憶はないが。これだけ毎日飽きもせずに怒りをぶつけられるのはよほどのこと。役に立たないだけなら、これほど彼女の意識に残りはしないだろう。想像を超える無能か、はたまた。
 そこまで考えて、思わず苦笑いしてしまう。自分も猪俣くんに取り憑かれそうになっていた。
「ふぅ……」
 食器を洗い終えてソファでくつろいでいると、凛が居間に戻ってきた。風呂を終えたようだ。
 風呂上がりの薄着のまま、凛が隣によいしょと息を吐いて腰を下ろした。凛が俺の肩にこてんと無防備に頭を乗せると、シャンプーの清潔で甘い香りが鼻腔に広がる。
「お風呂気持ちよかったぁ」
 昔のことを思い出す。俺たちがまだ、こんな関係になる前のこと。
 あの頃の凛を知っているだけに、今の甘え姿を見て思わず笑ってしまう。
「何笑ってるのよ」
「いや、ごめん。ちょっと昔を思い出して」
 怪訝な表情をする凛の頭を撫でて、言葉を続ける。
「最初に会った時の凛、凄かったからなあ」
「なによ急に」
 そう言って凛は笑うが、構わず続けた。
 凛は何かを察したように、少しだけ首をかしげて俺を見た。
「取引先のデザイナーだった俺に、一切の無駄も遠慮もなく指示してきて。しかも全然笑わないから、まるで氷の彫刻みたいだって思ってさ」
「……そんなこと思ってたの。失礼ね」
 最初のきっかけは、俺のしょぼいラフだった。要件の解像度が合わず、修正は雪だるまのように膨らんだ。
 すぐに、彼女とはオンラインのやり取りに留まらず、直接顔を合わせるようになった。俺の不出来をフォローするため、彼女は半ば強引に仕事に付きっきりになったのだ。
 残業は日常となり、休日も顔を合わせることが増えた。
 終電を逃さないために二人で急いで夕食を済ませたり、徹夜明けに朝食を共にしたり。そうした仕事のためのやり取りが、いつの間にか俺たちの私的な時間へと変わっていった。
 凛が楽しそうに、くすくすと喉を鳴らして笑う。
 そうだ、その笑顔が見たくて俺は必死だったんだ。鋭い視線の奥にある、誰より真剣に仕事と向き合う姿に、一瞬で心を奪われたのだから。
 風呂上がりの凛が少し頬を赤らめながら、バスローブ姿でビールを飲んでいる。その無防備な姿が、たまらなく胸に迫る。
「そういえば、今日クライアントから妙な修正が入ってさ。ボタンの色を『信頼の青から情熱の赤に』だって」
「なにそれ、面白い」
 俺は彼女の、柔らかな髪を優しく指で梳いた。
「……ずっとこんな感じで穏やかに過ごせたらいいよね」
「うん」
「今年、凛の仕事が少し落ち着いたら……その。俺らの子供について考えてみない?」
 凛は一瞬きょとんとした顔を見せた。
 言ってから、胸が冷えるのを感じた。凛がどう答えるか、怖かったのかもしれない。
 聞くタイミングを間違えただろうか。返事を待つ数秒が、やけに長く感じられる。
 しばらくして、凛はふわりと微笑んだ。
「……ふふふ、そうね。涼介に似た優しい男の子がいいな」
 ゆっくりと凛に歩み寄り、立ち上がった彼女の頬に優しく触れる。凛は目を閉じてその手のひらの温もりを受け止め、ゆっくりと深く息を吸った。
 言葉を交わす代わりに、彼女の手を引いた。凛も静かに俺の熱を受け入れ、二人で寝室へと向かう。凛はベッドサイドで、着ていたバスローブの帯を解き、滑り落ちた布が床にそっと音を立てた。
 たまらなく綺麗だ。何度見ても慣れることはない。
 柔らかな艶を放つキメの整った肌を、俺は視線で辿る。鎖骨から胸元へと流れる美しいラインの先には、柔らかくふくよかな乳房があった。それは重力に逆らうように上を向き、先端では薄いピンクの乳首が小さく主張している。
 凛は、先にベッドに腰掛けた俺の前に立ち、愛おしむように俺のシャツのボタンを一つ、また一つと優しく外していく。
「凛……」
 凛の指先が肌に触れるたび震えた。俺が堪えきれずに彼女の頬にキスを落とす。
「ふふふ、焦らなくていいよ」
 凛も微笑みながら囁《ささや》き、俺の唇に優しく甘い口づけを返してくれた。
 寝室のベッドは、凛の好きなリネンの香りがする。シーツの海に二人で沈み込み、どちらからともなく唇を求め合う。
 最初は優しく啄《ついば》むようだったキスが、次第に熱を帯びていく。彼女のしなやかな体が、俺の腕の中で、甘く、蕩けていくのがわかる。
「ん……っ」
 俺の手が、彼女の膨らみをそっと包み込む。親指の腹で乳首のまわりをゆっくりとなぞると、それはすぐに硬く尖り始めた。指先でそっと弾くたび、凛の体からくぐもった甘い声が漏れる。
「涼介……きて」
 その声を聞くだけで、俺のペ×スはどうしようもなく硬く張り詰める。心臓が早鐘を打ち、背中に汗が滲むのがわかった。
 ゆっくりと、ペ×スを彼女の入り口に押し当てる。熱く濡れたそこは、触れただけでひくつき、先端を飲み込もうとするかのように柔らかく開いた。少しずつ、少しずつ、奥へと沈み込んでいく。
「ぁっ……」
 とろりとした愛液が指を伝い、シーツに染みを作っていた。にゅる、と先端が沈み込む。凛の内側は熱く、ぬめるように俺を包み込んだ。
 穏やかで、優しい時間。激しい快感の応酬ではない。互いの肌の温もりを、呼吸のリズムを、心臓の鼓動を、ただただ感じ合う。
 この二人きりで溶け合うような一体感こそが、俺たちの愛の形だ。
「……んっ……ぁ……」
 浅く、ゆっくりと腰を動かす。ぐちゅ、ぐちゅと濡れた音が、静かな寝室に響く。
 凛の全身が小刻みに震え、白い喉がのけ反った。俺たちの肌は汗でしっとりと濡れ、触れるたびに吸い付くような熱を帯びている。
「あっ……涼介……っ」
 やがて、凛の体が小さく震え、どくん、と腹の奥からせり上がるような脈動が走り、俺は彼女の膣奥で熱を放った。ぬるりとした精液が、凛の内側を満たしていく感覚が、俺自身にも伝わってくる。
「っ……」
 どくん、どくんと脈打つたび、凛の膣が俺を締め付ける。汗で張りついた前髪をそっと払い、俺は彼女を抱きしめた。
 抱きしめ合ったまま、幸せな余韻に浸る。その時だった。
 俺の腕の中で、凛の体がほんのわずかに、強張ったような気がした。
 そして、俺の胸に頬を寄せる彼女の瞳が、一瞬だけ俺ではない、何か遠くのものを求めるように、虚空を彷徨った。
「凛?」
「……ん? なあに、涼介?」
 俺が声をかけると、彼女は、はっとしたように我に返り、いつもの、俺の知っている笑顔を向けた。
「ううん、なんでもない。ちょっと、仕事のこと考えちゃった」
「そっか。無理するなよ」
 俺は、そう言って彼女の汗ばんだ髪を優しく撫でた。
 完璧主義の彼女のことだ。ベッドの中でも仕事のことが頭をよぎる瞬間だってあるだろう。
 そう、自分に言い聞かせる。
 その小さな違和感の正体に、気づかないふりをして。俺たちのこの穏やかな日常は、これからもずっと、永遠に続いていく。そう信じて、俺は目をつぶった。
第二話 無能部下の意外な一面



 展示会当日の朝。私はいつもより一時間早く目を覚ました。
 隣でまだ穏やかな寝息を立てている夫、涼介の顔を横目に、私は静かにベッドを抜け出す。今日のプレゼンに向けて、心身ともに完璧な状態に整えるための私だけの時間だ。
 シャワーを浴び、丁寧にメイクを施し、寸分の狂いもなくアイラインを引く。クローゼットから選び出したのは、身体のラインを最もシャープに見せるタイトスーツ。すべてが、私という人間の信頼性を構成するパーツだ。
 リビングに降りると、涼介も起きていた。私のためにコーヒーを淹れてくれているようだ。
「おはよう、凛。今日は早いね」
 彼の声は、朝の静かな空気によく馴染む。
「展示会があるのよ。夜、何か食べたいものある? もし早く帰れたら買ってくるけど」
 キッチンに立ちながら、私は尋ねる。仕事モードに入る前の、大切な日常の会話。
「うーん、そうだなぁ。凛の好きな、あそこの生パスタなんてどうかな」
 彼は冷蔵庫を開けながら、手を止めて少し考え込んだ。
「いいわね、それにしましょうか」
 特に深く考えずに頷いた。そして玄関に向かう。
「じゃあ、行ってくるわ」
「ああ、いってらっしゃい」
 穏やかな涼介の目元が、朝の光の中で優しく細められた。彼の優しい笑顔に少しだけ心を緩ませながらも、ドアを閉めた瞬間、係長としての顔を作る。

 都内の大規模展示ホールは、最新のテクノロジーとビジネスチャンスを求める人々の圧倒されるような熱気でむせ返っていた。
 様々な言語の話し声、デモンストレーション用の機械の規則的な駆動音、人々の汗と高価な香水が混じり合った独特の匂い。それらが、ドーム状の天井の下で一つの巨大な渦を巻いていた。
「──以上が、弊社の新型画像認識センサーの主な特徴と、それによって期待される生産性の向上です。ご清聴いただき、ありがとうございました。何かご質問はございますでしょうか」
 メインステージでのプレゼンテーションを淡々と、しかし自信を滲ませる声色で締めくくった。
 大げさな演出はない。事実とデータに基づいた冷静な説明だ。だが、その揺るぎない事実にこそ聴衆を惹きつける力があると信じている。
 案の定、会場からは熱心な拍手が起こり、プレゼン後には何人もの担当者が名刺交換に訪れた。
 私はその一人ひとりに丁寧に対応し、見込みのありそうな相手は部下に引き継いでいく。私の采配で、今日も滞りなく進んでいる。
 集中が途切れたわけではないが、ふと空腹感が胃を軽く刺激した。腕時計を確認すると、時刻はすでに正午を過ぎている。
 殺到する来場者への対応で息つく暇もなかった部下たちを交代で休ませ、私は一人、ブースの喧騒から少し離れたバックヤードの隅で、ようやく一息ついた。冷たいペットボトルの緑茶が、渇いた喉を潤していく。
「午後のプレゼン、もう少し導入部分のデータを追加した方が技術系の担当者には響くかもしれないわね……」
 手にしたタブレットでプレゼン資料を修正しながら、私は思考を巡らせる。
 近くでは、先に休憩に入っていた女性の部下たちが弛緩《しかん》した表情で囁き合っている。
「ねえ、昨日のドラマ見た?」
「見た見た! あの展開、ちょっとありえないよね」
 その光景をぼんやりと眺めながら、私は他愛のない雑談というものが、どうにも苦手だと改めて思う。業務連絡ならすらすら話せるのに、休憩時間の部下との会話が続かないのだ。今も部下の会話に入っていく勇気はない。
 ふと、視線を上げた。会場の雑踏の中に何かを探すでもなく、ただ漫然《まんぜん》と視線を巡らせていた、その時だった。
 猪俣が誰かと話していることに気づいた。穏やかで少し楽しげですらある自然な表情だ。
 彼の目の前に立つのは、中年の男。仕立ての良いスーツの上からでも厚い胸板がわかり、肌は日に焼けている。どこの企業の人だろうか。
 二人は、決して騒がしくはないが、親密な空気の中で落ち着いて言葉を交わしている。猪俣の手には、我が社の製品カタログがあった。
「ほう、ラグビーを。ポジションはどこだったんですか」
 男の落ち着いた、それでいて興味深そうな声が喧騒の中でも不思議と私の耳に届いた。
「フォワードでした……。まあ、ほとんどベンチだったんですけどね」
 猪俣は少し照れくさそうに、しかし、いつものような卑屈さはない穏やかな声で答えた。
 その姿を見て、思わず手に持ったタブレットを閉じる。
「そうでしたか。私は大学時代にロックをやってましてね。フォワードの選手は縁の下の力持ちというか、本当に尊敬しますよ。スクラムを組む時のあの感覚は独特でしょう」
「はい……! あの……、地面を掴むような……。仲間と一体になるような……あの感覚だけは、今でも忘れられなくて」
 普段の蚊の鳴くような猪俣の声からは想像もつかないほど、彼の声には確かな実感がこもっていた。その瞳はオフィスで見せる、生気のない黒ではなく、遠い昔を懐かしむような穏やかな輝きを放っている。
 私はその光景を遠巻きに、食い入るように見つめた。
 あの猪俣に、こんな一面があったとは。
 彼がこれほど普通に誰かと会話している姿を、私は入社以来、初めて目にした。
 そう、普通だったのだ。大げさな笑顔でもなければ、卑屈な態度でもない。ただ、共通の話題を持つ人間同士が、ごく自然に言葉を交わしていた。それだけのことが、私には信じがたく思えた。
「ポジション柄、あまり目立つことはなかったんですが、チームのために体を張る、というのは性に合っていたのかもしれませんね」
 猪俣は、少しだけ誇らしげに、そう言って微笑んだ。
「なるほど。そういう実直さはどんな世界でも一番大切なことですよね。いや、面白いお話をどうも。お陰でいい休憩になりました」
 男は満足そうに力強く頷くと、軽く手を上げて人混みの中へと消えていった。猪俣はその背中を少し名残惜しそうに、穏やかな目で見送っている。
「いつも、その調子で仕事をしてくれたらいいのに」
 無意識にそんな言葉が乾いた唇から漏れていた。
 口にしてから、意地悪な考えだと反省するが、それが紛れもない本音であることも確かだった。自分でも戸惑うほどに。
 だが、感傷に浸っている場合ではない。私はすぐに思考を切り替え、空になったペットボトルを近くのゴミ箱へと投げ入れた。

 午後の日差しがブラインドの隙間から差し込み、オフィスに穏やかな縞模様を描き出していた。
 昼食後の気怠い空気が、キーボードを叩く規則的な音に溶け込んでいる。私もいくつかの承認書類に目を通し、一日の業務が予定通りに着地することを確認していた。窓の外では、午後の雲がゆっくりと流れている。
 そんな時。内線が鋭く鳴った。部長席からだ。
「営業企画部第二課、全員、第一会議室に集めてくれ。緊急ミーティングだ」
 受話器から響く上司の硬質な声にフロアの空気が凍りついた。
 キーボードの音が止み、社員たちがいぶかしげに顔を見合わせる。緊急ミーティング、という言葉の持つ不穏な響き。
 誰かが、何か重大なミスをやらかしたのか。私の脳裏には、あの愚鈍な大男の顔が浮かんでいた。
 重い空気の中、第一会議室にチームの面々がぞろぞろと集まる。
 上司は腕を組んだまま、厳しい表情で全員が着席するのを待っていた。その視線が私の隣に座る男、猪俣忠司の上で一瞬、奇妙な光を帯びて留まったことに気づく。
 やはりこの男か、と心の中でため息をついた。
「単刀直入に言う。中堅自動車部品メーカーとの間で、新型センサーに関する大型案件の発注見込みが確定した。契約額は保守契約を含め、数億円規模になる見通しだ」
 一瞬の沈黙。そして、次の瞬間、会議室は抑えきれない驚きのざわめきに包まれた。
 数億円。それは、私たちが今年度目標としていた新規契約額のかなりの部分を占める。誰が、いつの間にそんな大口案件を。そんな、同僚たちのざわめきが、私の耳を通り過ぎていく。
「この案件を、単独でまとめ上げたのは、猪俣だ」
 時が、止まった。
 私の思考が完全に停止する。耳鳴りがキーンと頭蓋の内側で鳴り響き、目の前の光景が、一瞬、遠のいた。
「もちろん、これから法務や経理、技術チームともすり合わせが必要だし、条件面の詰めも残っている。だが、それでもここまで一人でこぎつけたのは大したものだ。よくやった猪俣」
 猪俣が? あの、猪俣が?
 嘘だ、ありえない。取引先が、よほどの馬鹿だったりしたのだろうか。それとも新手のドッキリなのか。私の頭の中で、いくつもの否定の言葉が、渦を巻く。
「猪俣が!?」
「マジかよ……」
「あいつが、どうやって……」
 同僚たちの信じられないといった声が、遠くに聞こえる。
 私は、隣の男におそるおそる視線を向けた。猪俣は、一身に注目を浴びて居心地が悪そうに身じろぎし、ぼさぼさの頭を恥ずかしそうに掻いている。
「経緯を本人から説明してもらおうか。猪俣」
 上司に促され、猪俣はのろのろと立ち上がった。風とともに、汗臭い匂いがかすかに漂ってくる。
 その口から語られたのは、地道なプロセスだった。
「……あの、先日の展示会で、A社の方と、その……大学時代のラグビーの話で、少し、盛り上がりまして……」
 そこから付き合いが始まった、と彼は言った。
 名刺交換をした後、何度か連絡を交わす間に彼は一人で企業を分析した。私的な会話から得たヒントを参考に、課題を洗い出し、自社製品がどう貢献できるかの提案書を夜を徹して作成したのだという。
 誰にも見せず、彼一人で。そしてアポイントを取り付け、粘り強く交渉を重ねた。
 猪俣の口から語られる言葉は、相変わらずたどたどしく自信なさげだ。
 しかし、手元の資料から窺える内容は驚くほどに緻密で、積み重ねた努力の末の成果だった。
「素晴らしい成果だ。見直したぞ猪俣」
 上司が、手放しで彼を称賛する。同僚たちからも、称賛と嫉妬の入り混じった拍手が送られる。
 その中で、私は唇を噛みしめることしかできなかった。口が開いてはくれない。猪俣を褒める──その行為が、これまでの自分の判断を否定することのように思えた。
 上司として、この成果を評価しないわけにはいかない。頭ではわかっている。けれど、心が追いつかない。
「……よくやったわ、猪俣さん」
 ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚くほど、冷たく、硬く響いた。
 猪俣がびくりと肩を震わせ、こちらを見る。その瞳には、喜びとも安堵ともつかない色がついていた。
 会議が終わり、私たちは重い足取りで自席に戻った。
 モニターを立ち上げメールの一覧を眺めるが、文字の列はまるで意味を成さない。カーソルが点滅する画面を前にしても、頭のどこかがまだ会議室に取り残されているようだった。
 視界の端、デスクを挟んだ向こう側で猪俣が黙々と資料を整理しているのが見える。その姿を認めるたびに心のどこかが揺れた。
 何かの偶然か。まぐれか。そう思おうとするたびに、猪俣の語ったあの穏やかな声が頭の中で反響する。不器用だが、嘘のない言葉。
 どうにも釈然《しゃくぜん》としない。そう思うのは、私の性格の悪さのせいだろう。
 とはいえ、猪俣が打ち立てた金字塔に揺れた興奮も、夕暮れのチャイムが鳴る頃には日常の喧騒に吸収され、嘘のように静けさを取り戻していた。
 同僚たちの驚きと称賛の声も今では囁きに変わり、モニターの光だけが煌々とフロアを照らしている。
 しかし、私だけは、あの衝撃的な報告から数時間が経ってもなお、心のどこかでざわめきが収まらなかった。
 内線が鋭く鳴り響いたのは、ちょうど最後の一件となったタスクを片付けようとしていた時。ディスプレイに表示された「部長室」の文字に、私は小さく息を飲む。
「はい、白石です」
『少し、いいか』
 嫌な予感が背筋を走る。
 重厚なマホガニーの扉をノックし、入室を促されて足を踏み入れる。
 革張りのソファ、壁一面の本棚。私より数歩先を行く成功者の空間だ。上司はデスクの向こうで、組んだ両手を静かに私に向けていた。
「猪俣の件、改めて見事だった。君の指導の賜物《たまもの》でもあるな」
「いえ、本人の努力の結果です」
 上司のお世辞にも表情を崩さず、私は淡々と答える。私の手柄のように言われるのは、それこそ腹立たしい。
「まあ、そう謙遜するな。それで本題だが、例の契約の件で先方へ顔合わせと今後の打ち合わせに行く必要がある」
「はい」
「そこで、出張を頼みたい」
 悪い予感は的中した。私はただ、次の言葉を待つ。
「本来なら担当課長か、私が行くべき案件だ。だが、課長は来週から九州の大型案件で手が離せん。そして私は、知っての通り明後日から海外だ」
 上司は、まるでチェスの駒を動かすように、事実だけを並べていく。逃げ道は一つずつ丁寧に塞がれていった。
「当事者である猪俣は必須として、先方との関係構築と実務的な打ち合わせをまとめる役が必要だ。君は係長であり課長代理でもある。お願いしたい」
 断る余地が一切ない指示だった。
 しかし、理解はできても納得ができない。なぜ私が、あの男と二人きりで。
 喉元まで出かかった拒否の言葉を、私は奥歯を噛みしめて飲み込んだ。
 異を唱えれば、私の評価が下がる。それだけは許容できない。
「……承知いたしました」
 絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦に響いた。

「ただいま」
 ヒールを脱ぎ、バッグをソファに置く。リビングへ続くドアを開けると、ふわりと味噌とかつお出汁の優しい香りが私を迎えた。
 リビングの柔らかな照明の下、夫の涼介がキッチンに立ち、夕食の最後の仕上げをしているところだった。
「おかえり、凛。今日は遅かったね」
 振り返った彼の顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
 この表情を見るだけで、肩の力が抜ける。
 一日中張り詰めていた緊張の糸がぷつりと音を立てて切れた。私は履いていたヒールを脱ぎ捨てると、彼の背中に吸い寄せられるように歩み寄った。
「ねえ、聞いてよ。最悪なの」
 ソファにバッグを放り投げ、私はテーブルにつっぷすようにして愚痴をこぼす。
「どうしたの?」
 涼介は手を止め、私の隣に座って顔を覗き込んできた。
 その無防備な優しさに、私は堰を切ったように言葉を続けた。
「来週、出張に行くことになったの。泊まりがけで」
 私は箸を置いた。
「しかも、あの猪俣とよ。二人きりで」
 最後の言葉は、自分でも意識しないうちに吐き捨てるような響きを帯びていた。
 涼介は手を止め、静かに私の隣に腰を下ろした。
「猪俣って、いつも凛が話してる……」
「そうよ。あいつが大型の契約を取ってきてね。私まで顔見せに付き合わされることになったの」
 猪俣に押し倒され、胸を掴まれた時の不快な感触が蘇る。あの脂汗が浮いた顔に不愉快な体臭。思い出すだけで吐き気がした。
 涼介は私の剣幕にも動じず、ただ黙って話を聞いていた。
 そして、湯気の立つ味噌汁をよそいながら、ゆっくりと口を開いた。
「そっか、大変だな……。でも、凛なら大丈夫だよ」
 彼はそれだけ言うと、いつものように穏やかに笑った。
「大丈夫って……そんな」
 あまりに素直で、何の疑いも持たない励ましの言葉に私は一瞬カチンと来た。
 もうちょっと何かあるでしょうよ。あなたの妻が、男と二人で出張なのに。
「涼介にはわからないわよ」
 思わず声が尖った。この人はわかってない。私がどれほどの嫌悪感と屈辱を抱えているのか。
 しかし、その苛立ちはすぐに、深い安心感へと変わっていった。
 涼介はそういう人じゃないか、と。優しくていつも変わらず。だから私は、この人を好きになった。
「……」
 涼介の柔らかな髪は、蛍光灯の光を受けてほんのりと茶色に透けていた。指先で触れればふわりと形を変えそうな、穏やかな色と質感だった。
 少し伏せたつぶらな瞳は、いつも通りの静かな温度を湛え、私の苛立ちも焦りも、まるごと包み込むように見つめていた。その目に映る世界はきっと、私が想像するよりもずっと優しく、澄んでいるのだろう。
「……ごめん」
 私は一口、
温かい味噌汁をすすり、強張っていた心と体がゆっくりと解けていくのを感じた。
 猪俣への嫌悪感は、澱のように心の底に沈殿したままだ。
 だけど、夫の言葉のお陰で少しだけ抵抗感は薄まった。
 苛立ちを抱えながらも、私は社会人としてこの出張を乗り切らねばならない。頭を切り替え、スーツケースの準備はいつ始めようかと考えることにした。
第三話 二人きりの出張



 出張前夜のオフィスはすでにほとんどの社員が帰宅し、静寂に包まれていた。
 しかし、私たちのデスクまわりだけ、蛍光灯の白い光が突き刺すように照らしている。
 原因は、猪俣の資料だ。ページを開くたびに、眉間の皺《しわ》が深くなる。誤字は序の口で、グラフの軸まで間違っている。
「これじゃ話にならないわ。あなた、今まで一体何をしていたの?」
「す、すみません……本当に……」
 私が突き返した書類の束を前に、猪俣は掠れた声で何度も頭を下げた。
 もう怒りを通り越して、全身から力が抜けていく。
 最悪、私の予備の提案書で乗り切るしかない。そうなれば、この男の評価は再び地に落ち、今回の契約がマグレであったことを皆理解するだろう。
「……もういい。私がやるから、あなたはそこに座ってなさい」
 最終通告に近い言葉を投げつけ、私は自分のノートパソコンを開いた。猪俣が一瞬、口を開きかけたが、気にする余裕はない。
 カタカタと鳴るキーボードの音だけが、深夜のオフィスに虚しく響く。
 猪俣は私の背後で、縮こまるように椅子に座り、時折声をかけようとしては、私の放つ冷気に気圧されて口をつぐんでいた。
 時計の針がてっぺんをとうに過ぎ、私の集中力も限界に近づいていた頃だった。
「……できました」
 おずおずと差し出されたUSBメモリを私は奪い取るように受け取った。
 どうせまた、ろくでもないものだろう。期待など欠片もなかった。しかし、ディスプレイに表示された最終版の資料に私は思わず目を見張った。
 構成が、見違えるように整理されている。
 冗長だったデータは要点だけが的確に抜き出され、顧客が懸念していたコストと導入効果が複数のパターンで、しかも現場の人間でなければ気づかないような細かな視点で比較検討されている。
 いつの間にこれを。
「……これで、いきましょう」
 感情を押し殺し、私はそれだけを告げた。
 猪俣は心底ほっとしたように、その大きな体を丸めるようにして深々と頭を下げた。
 この資料が、あの猪俣から出てきたという事実が、頭の片隅に引っかかった。
 もちろん、これしきのことで彼への評価が覆るわけではないが。それでも、契約を取ったことがマグレではないかもしれない、そう期待させる片鱗《へんりん》はあった。
 結局、その期待は裏切られ、根底にあった不信感が正しかったことを私は翌朝、身をもって痛感する。

 会社の最寄り駅、午前六時。まだ薄暗いホームに、私は約束の五分前に到着していた。
 繰り返し送った『定時厳守』のメッセージも虚しく、猪俣は発車時刻ぎりぎりになって、巨体を揺らしながらホームを駆け上がってきた。肩にかけた鞄がずり落ち、ワイシャツの裾がベルトからはみ出している。
「ぜぇ……はぁ……し、白石係長、申し訳、ありませんっ!」
 滝のような汗をかいた顔で彼は何度も頭を下げる。その姿に、昨夜の資料に感じたわずかな期待はあっけなく消えた。
 新幹線に乗り込んでからも彼の失態は続いた。
 まず、指定席の番号を間違えすでに座っていた乗客に怪訝な顔をされる。さらには、狭い通路で巨大なスーツケースを右往左往させ、ようやく正しい席にたどり着くまでに貴重な時間が失われた。
「やれやれ……」
 窓の外を流れる景色に視線をやりながら、私は小さくため息をつく。
 それでも、ようやく一息つけると力を抜いたのだが、猪俣の不手際はまだ終わらない。
「あ、あれ……切符が、ない……」
 猪俣が青い顔でポケットというポケットを探り始めた。ジャケットの内側、ズボンの尻ポケット、カバンのサイドポケット。ガサゴソと耳障りな音を立てる彼に、周囲の乗客からの冷ややかな視線が集まる。
「落ち着いて探しなさいよ。どこかにあるはずでしょ」
 苛立ちを抑え、私はできるだけ平坦な声で促す。一分ほどの滑稽《こっけい》な一人芝居の後、彼はしわくちゃになった切符を掌に乗せた。
「あ、ありました……上着の、内ポケットに……」
 少し見直したと感心したら、すぐにこれだ。私は窓の外に視線を逃がし、苛立ちから唇を噛んだ。
 結局、この出張は最低の幕開けとなった。そもそもが最悪な旅路ではあるが、私の不快感は、車輪の回転とともに熱を帯びていった。
 この男と丸二日も行動を共にしなければならない。そう思うと、ため息しか出ない。

 新幹線を降り、タクシーに揺られて三十分。
 目的地の自動車部品メーカーの工場は、建物の古びた外観とは裏腹に凄まじい熱気を放っていた。
 鉄が擦れる甲高い音、プレス機の地響きのような振動、そして鼻をつく油の匂い。
「すごいですね、これ……」
 猪俣の横顔には、子供のような無邪気さが浮かんでいた。
 私たちのオフィスとは何もかもが違う。無骨で張り詰めた現場の空気に、思わず唾を飲み込んだ。隣を歩く猪俣は、興味深そうにキョロキョロと落ち着きなくあたりを見回している。
 緊張感の欠片もない、緩みきった表情。思わず、遠足じゃないんだから、と言いかけたがやめた。
 出迎えてくれたのは、日に焼けた体育会系風の男性社員。展示会で猪俣と話していたラグビー仲間だ。
「遠いところ、わざわざありがとうございます」
 猪俣は私の前では決して見せないような、人懐っこい笑顔で挨拶を交わしている。ビジネスの場にしては少し砕けすぎではないかというくらい、二人はすでに親交を深めているようだった。
 その親密ぶりに驚くと同時に、ちょっともう少し立場を考えなさいよ、と内心で眉をひそめる。もちろん、そんな小言を相手方がいる前で口に出来るはずもなく、そのまま私たちは会議室に通されて打ち合わせに入った。
 せめて、無礼な真似だけはしないでほしい。そう身構えていた私は、次の瞬間、自分の目を疑うことになった。
 猪俣は、資料を手に立ち上がるとまるで別人のように切り替わる。猫背だった背筋はすっと伸び、虚ろだった瞳には力強い光が宿っていた。
「本日は……お時間をいただき、ありがとうございます」
 猪俣は、一度、深く息を吸った。
「先日ご提案させていただいた、新型センサーの設置プランについて、ご説明します」
 よどみない声で続ける。
「設置はラインのこの位置が最適でして。図面をご覧ください。配線は、床下の既存ダクトを通すことで、現在の製造ラインへの干渉を最小限に抑えられます。また、懸念されていたメンテナンス性ですが……」
 猪俣は手元のタブレットを操作し、画面を担当者に向けた。担当者が、ふむ、と身を乗り出す。
「皆様の現場では、メンテナンスでラインを停止されています。本センサーなら、稼働中でも常時監視が可能で……」
 新幹線の中でどもっていた男とは一変している。
 工場の稼働状況に作業員の動線。現場に深く根差した提案をすらすらと述べていく。
「将来的に、こちらのラインに拡張される場合も、センサーの増設だけで対応できます。既存の配線を活かせますので」
 猪俣はレーザーポインターを図面の隅に向け、指し示した。私が昨夜見落としていた、拡張計画の注釈だ。
 別人みたいだ……。これが、あの猪俣なのか。
 隣でプレゼンテーションを聞きながら、私は言葉を失っていた。あの資料を、彼は完全に自分のものとして血肉に変えていたからだ。
 猪俣の額にうっすらと汗が浮かんでいた。時折、言葉を選びながらも、声は懸命に自分の考えを伝えている。その姿は私が知っている間抜けな猪俣ではなかった。
「素晴らしい。猪俣さん、噂と違って、いや、噂以上にしっかりしているじゃないか」
「……それは失礼ですよ」
 担当者とその部下が、冗談を交えながら満足そうに何度も頷いている。
「現場のことを、よくわかっていらっしゃる。これなら安心して任せられるなぁ」
 惜しみない賞賛の言葉が、猪俣に送られる。
 彼は謙遜しながらも、その顔には確かな自信が浮かんでいるようだった。
 長時間に及んだ打ち合わせは、終始和やかな雰囲気で驚くほど順調に進んだ。
 新たな課題や懸念点についても、猪俣はその場で的確な代替案を提示し、担当者を唸らせた。
 私はといえば、彼の完璧な立ち回りの前では補足説明をする必要すらほとんどなかった。
 手にしたタブレットを、膝の上に置く。ノートを取るふりをして、ペン先で紙の端をなぞったが書くことなど、何もなかった。部下を引き連れた商談で、手持ち無沙汰になるなど、私にとって初めての経験だった。
 人を見直す、とはこういうことなのか。
 会議室を出て、再び工場の喧騒の中を歩きながら私の心は混乱していた。
 これまでの猪俣は、一言で言うなら無能。それは揺るぎない事実だった。我が社の人間に聞けば百人中百人がそう答えるだろう。
 なのに、今日の猪俣は一味も二味も違った。最終的な結論として、私は認めざるを得ないだろう。猪俣はやれば出来る人間なのだと。
 不思議と猪俣に対する生理的な不快感も薄れていた。もちろん、好意などは全く無いが。同僚として、共に過ごすぐらいなら悪くない、と思える程度には変わってきたのだ。
 心の奥底で、何かが静かに動き始めているのを感じる。
 まだ名前もつけられない、かすかな感情の萌芽。これが良い方向に転ぶのか、それとも悪夢の前触れなのか、まだ判別はつかなかった。

 すべての打ち合わせが滞りなく終わり工場の外に出ると、空はすでに茜《あかね》色に染まり始めていた。
 まとわりつくような油の匂いと機械の騒音から解放され、ひんやりとした空気が心地よい。
「……はぁ、終わったわね。なんだか、どっと疲れが出たわ」
 私は小さく息を吐き出しながら、こめかみを押さえた。嘘偽りない本音だった。商談の緊張よりも、隣の男の予想外の活躍に頭を使いすぎたせいかもしれない。
「お、お疲れ様でした。……何とか上手くいきましたね」
 猪俣がおずおずと、しかしどこかホッとしたような顔でこちらを窺ってくる。
 よくやったわ、助かった──本当なら、上司としてそう労《いたわ》ってやるべき局面なのだろう。今日までの努力と、日中の立派な立ち回りはすでに認めざるを得なかった。
 けれど、いざ言葉にしようとすると、喉の奥に何かがつかえてどうしても出てこない。これまで無能だと切り捨ててきた手前、今更どんな顔をして褒めればいいのかわからなかったのかもしれない。
「……ええ、そうね」
 結局、私はそんな素っ気ない言葉でごまかし、視線を逸らした。
 その気まずい沈黙を破るように、間を置かず、私たちの前に一台のタクシーが滑り込んでくる。あらかじめ猪俣が手配しておいてくれたのだろう。開いた自動ドアに促されるようにして私たちはそれに乗り込んだ。
 後部座席のクッションに深く背中を預け、大きく息を吐き出す。エアコンの冷気が、火照った肌を撫でるように冷やしてくれて、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。

 週末の夕方とあって、駅前は多くの帰宅客や酔客でごった返している。その人波を縫うように進み、私たちは予約していたホテルを目指した。
「あの……白石係長。お疲れ様でした」
 隣を歩く猪俣が、いつもの自信なさげな口調で声をかけてきた。日中のあの堂々とした姿はどこへやら。彼は再び元のぼんくらな猪俣に戻ってしまったかのようだ。
「僕、この後はホテルに戻って……夕食は、そこのコンビニで何か買って済ませますので」
 彼は申し訳なさそうに駅前のコンビニを指差した。その姿に私は昼間のプレゼンテーションを思い出していた。
 あれだけ立派に仕事をこなした男が祝杯をあげるでもなく、一人寂しくコンビニ弁当で夕食を済ませるとは。その光景を想像した時、胸の奥がちくりと痛んだ。
「待ちなさい」
 私の声に、猪俣の大きな肩がびくりと揺れる。
「今日はよく頑張ったわね、猪俣さん」
 隣で見ていて、頼もしさすら感じた。
 だから、これは上司として当然のこと。ねぎらってあげないといけない──そう、自分に言い聞かせるように頷いて続ける。
「駅前に、良さそうな居酒屋があったから、今夜は私がご馳走する」
「えっ、い、いえ! そんな、滅相もございません! 係長にそんなご迷惑は……」
「迷惑じゃないわよ。私も一人で食べるのは嫌だから、猪俣さんがよければ行きましょう」
 そう告げて、踵を返し駅前の小さな商店街へと歩き出した。

 一本奥に入った路地にある、赤提灯を下げた小さな居酒屋に入った。ここなら気取らずに済むだろう。
 暖簾をくぐると、店内はカウンター席だけのこぢんまりとした造りだった。
 木の温もりが感じられる落ち着いた空間に、香ばしい焼き鳥の匂いが漂っている。猪俣は、私が座るまで立ったまま、所在なさげにメニューを眺めていた。
 当初は飲むつもりなど全くなかった。しかし、カウンターに腰を下ろし、目の前でビールジョッキに注がれる黄金色の液体を見ていると、一日分の疲労が喉の渇きとなって押し寄せてきた。
「……まずは、今日はお疲れ様」
 乾杯の言葉とともに、ごくりと冷たいビールを喉に流し込む。
 染み渡るような苦味と炭酸の刺激が渇いた喉を潤し、肩の力が少しずつ抜けていく。
 このために働いているのだ、と言うと大げさに聞こえるかもしれないが、今は本当にそう思える。
 最初は、当たり障りのない仕事の話から振ることにした。このまま無言で箸を進めるのも気まずかったからだ。
 しかし、アルコールが警戒心の壁を溶かしたせいか、会話は自然とプライベートな領域へと踏み込んでいく。
「猪俣くんは、ラグビーをやっていたのよね。今日の担当者の方とも、それで意気投合したんでしょう?」
「あ、はい……。でも、大学時代はほとんどベンチで。体が大きいだけで、全然うまくならなくて……」
 彼は少し恥ずかしそうに、どこか懐かしむような目で自身の大学時代を語り始めた。華やかなスター選手ではなかったこと。それでも、チームのために自分に何ができるかを考え、データ分析や練習のサポートに徹したこと。
 その言葉の端々から、猪俣の不器用ながらも実直な人柄が滲み出ていた。私は相槌を打ちながら、彼の話に静かに耳を傾けていた。
「……白石係長は、どうしてこの会社に?」
「そうね……。きっかけはOB訪問なんだけど。小さい頃からCMで見ていたのも理由の一つかしら」
 私は自分のキャリアや、夫である涼介との出会いを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
 普段、部下にプライベートな話など一切しない私が、なぜか今夜は自然に言葉が紡ぎ出されていく。猪俣の不器用な正直さに、つい自分も話したくなったのかもしれない。
 話が途切れた時、猪俣が何かを思い出したように、ぽつりと呟いた。
「あの……係長は、覚えていらっしゃらないかもしれませんが……」
「何?」
「就職試験の際、実は一度、係長とご一緒してるんです」
「……私と?」
 思わず聞き返す。全く記憶にない。
 だが、彼の声の調子がどこか懐かしくて胸の奥がわずかにざわついた。
「グループ面接の時です。僕、緊張で全然話せなくて……」
 猪俣は一度言葉を切り、グラスに手を伸ばした。その指先が、かすかに震えている。
「順番が回ってきても、何も言葉が出なくて。空気が凍りかけたその時、係長──いえ、白石さんが、『じゃあ次は彼が話す番ですね』って、さりげなく話題を振ってくれたんです」
 彼は続けた。
「その一言で……ようやく、落ち着いて……自分の言葉で、話せたんです。……あの時、本当に、救われました」
 彼の語る場面が、うっすらと脳裏に浮かぶ。
 緊張で顔を真っ赤にした一人の学生。その隣で少し気を使いながら場を繋ごうとしていた自分。
 あれが、猪俣だったのか。
「その言葉がなかったら僕はきっと落ちてました。だから、今こうして同じ職場で働けているのが、今でも不思議で……」
 彼はそう言って、深々と頭を下げた。
 その瞳には、いつもの覇気のなさとは違う静かな感謝の光が宿っていた。
 私は、胸の奥に広がる温かさと戸惑いをどう言葉にしていいのかわからず、ただ彼を見つめ返すことしかできなかった。
 無能で、愚鈍で、目障りなだけの存在。つい今朝まで私はそう思っていた。なのに、この男が過去の恩を忘れず、不器用ながらも必死に居場所を求めていたと知り、自責と後悔の念が広がる。
 私の知らないところで彼もまた、人並み以上の苦悩や葛藤を抱え、社会で戦っていたのだ。その当たり前の事実に今更ながら気づかされた。
「そう……。そんなことが、あったのね」
 私はそれだけを言うのが精一杯だった。
 猪俣への見方が、音を立てて変わっていく。それはもう、単なる評価の揺らぎではなかった。アルコールのせいか、それとも彼の言葉のせいかはわからない。
 猪俣の意外な告白から、私たちはしばらく言葉を失っていた。
 気まずいというよりは、どこか満たされた沈黙だった。
「ふふっ」
 沈黙を破ったのは、私から出た不意の笑い声。
「どうかしましたか、係長?」
「なんだか、不思議な気分だなって。あなたとこんな風に普通に話せるなんて思ってもみなかったから」
「……僕も、です」
 猪俣は少し照れたように頬を掻いた。その仕草が昼間の堂々とした姿とは結びつかず、妙に子供っぽさがあって、また笑ってしまった。
 ジョッキに残っていたビールを飲み干し、日本酒の熱燗《あつかん》を注文する。
 体の芯から温まるような感覚が、アルコールの回りと思考の解放をさらに加速させた。酔いが回るにつれて、私の口はどんどん滑らかになっていく。
「涼介はね、本当に優しいの。私がどんなに仕事の愚痴を言っても、全部『うんうん』って聞いてくれるし」
 夫の話をしているはずなのに、なぜだろう。その完璧な優しさが、今は少しだけ色褪せて聞こえる。
「でもね、時々思うの。もう少しだけ……」
 ──強くリードしてほしい、と。そこまで言いかけて、私は口を閉じた。
 猪俣の前で、何を言っているんだと。自分でも驚くような本音が、ぽろりと口からこぼれ落ちた。涼介への不満なんて、これまで考えたこともなかったのに。
 いつも変わらず優しい。でも、変わらないからこそ……。そこまで考えて、私は首を振った。
 猪俣のジョッキを持つ手が、空中で止まっている。彼は、何か言おうとして、口を開きかけては閉じた。居酒屋の喧騒が、一瞬、遠のいた気がした。
 気まずい空気が流れる。その沈黙に耐えかねたように、猪俣が慌てて口を開いた。
「あ、あの……お子さんは、いらっしゃるんですか?」
 すぐに「まずいことを聞いた」と気づいたのか、はっとしたように猪俣は手で口を押さえた。その狼狽ぶりがなんだかおかしくて、怒りは沸いてこなかった。
「ふふ、まだいないわ。仕事が忙しくてなかなかね。でも、そろそろ真剣に考えてはいるのよ」
 私のあっけらかんとした返事に、猪俣はほっとしたような表情を見せた。
 その気まずさを払拭するように、今度は私から質問を投げかける。
「あなたは、彼女いるの?」
「いえ……こんな見た目なので、昔から女性には全く縁がなくて」
 猪俣は力なく笑いながら首を横に振った。その自嘲気味な笑みに私の胸がちくりと痛んだ。以前の私なら「当然だ」と心の中で嘲笑していたはずなのに。
「そんなことないわよ。体格だってしっかりしているし、それに、あなたは優しいじゃない。今日みたいな仕事ぶりを見せたら、社内の子だってきっとあなたを見直すわ」
 気づけば、私は彼を励ましていた。上司としてではなく、一人の女性として。
「ねえ、好きな子はいるの?」
 ふと、悪戯心が芽生えてそんなことを聞いてみたくなった。
 私の問いに、猪俣は明らかに動揺して言葉に詰まった。みるみるうちに首元から耳までが真っ赤に染まっていく。
「もしかして、会社の子?」
「い、いえ……! そんなことは、まったく……!」
 畳みかけると、彼は手すりを掴むようにジョッキを握りしめ、全身で否定した。その純情すぎる反応を見ているうちに、私の脳裏に数年前の光景がふっと蘇った。
 そういえば、猪俣に告白されたことがあったなと。
 日本酒の酔いが、私の理性を悪戯に刺激する。普段なら絶対に口にしないような軽口が、滑らかに滑り出ていった。
「あなた、昔私に告白したことがあったわね。歓迎会の時に」
「ぶっ……!」
 猪俣は喉を詰まらせ、激しく咳き込んだ。その顔は今や赤を通り越して土気色《つちけいろ》になりかけている。
「し、白石係長、あの、それは……! その、本当に、昔のことで……一時の気の迷いといいますか、若気の至りというか、その……!」
 必死に両手を振って言い訳を並べる猪俣を見て、私はわざとらしく眉をひそめてみせた。
「何よ、気の迷いって。ずいぶんと失礼じゃない」
 悪戯が成功した子供のように、私はさらに一歩踏み込んでみる。
「じゃあ、今はもう、私のことは好きじゃないってことかしら?」
 からかうつもりだった。からかって、彼がさらに慌てるのを見て、笑って済ませるつもりだったのだ。
 だが、猪俣は言葉を失ったまま、ただ赤くなった顔で私を凝視した。口元をかすかに震わせ、弁明の言葉を探すように視線を彷徨わせるが、やがて諦めたように俯いてしまった。
 ──あれ。
 その反応に、私の胸の奥が冷やっとした。
 こいつ、もしかして……。
 冗談で言ったはずの言葉が、急速に重たい意味を持って場に居座り始める。からかいの空気は一瞬にして霧散し、居酒屋の雑多な喧騒の中で、私たちの席だけが真空になったかのような静寂が訪れた。
 俯いたまま動かない猪俣。
 気まずい沈黙の中で、私は彼をじっと見つめていた。
 こんなだらしない男、全く好みじゃない。これまでは嫌悪感と鬱陶しさしか感じていなかったはずだ。だが、どうしてだろう。アルコールで熱を帯びた視界の中で、彼の輪郭が妙に生々しく浮き上がって見えた。
 厚みのある体格に、無精髭の跡が青く残る頑丈そうな顎のライン。ぼんやりと半開きになった、どこか肉厚で野卑《やひ》な唇。
 不細工で、だらしなくて、洗練とは程遠い。なのに、そこから強烈な「男」の存在感が発せられているのを、私は認めざるを得なかった。
 じっと見つめている視線に気づいたのか、猪俣がゆっくりと顔を上げた。
 くぼんだ狐のような目が、まっすぐに私を捉える。
 目が合った。
 逸らさなければいけないのに、吸い寄せられるように、私はその濁った瞳から目を離せなくなった。
 ドクン、と胸の奥で重い鼓動が跳ねる。アルコールのせいか、それとも──。
 ごくり、と猪俣が大きく喉を鳴らして唾を飲み込む音が、やけに鮮明に鼓膜を震わせた。
 周囲の声も、食器の触れ合う音も、すべてが遠い世界の出来事のように消え去っていく。視界の中の猪俣の顔が、ゆっくりと大きくなっていく。
 私が身を乗り出しているのか、それとも彼が近づいてきているのか。もうわからない。
 鼻腔に届くのは、彼の体温が混ざった熱いアルコールの吐息。それは私の顔や唇に、かすかな熱風となって触れた。
 あと数センチで、互いの唇が触れ合う──その瞬間だった。
「はいっ、お待たせしました! 熱燗二合と、おつまみになります!」
 威勢のいい店員の声とともに、どんっと木製のテーブルに徳利《とっくり》が置かれた。
「あ……っ」
「す、すみません……!」
 弾かれたように、二人の身体が同時に後ろへと飛びのいた。
 私は慌てて視線をテーブルに落とし、乱れた呼吸を整えるために熱燗の猪口をつまんだ。指先がかすかに震えている。猪俣もまた、顔を真っ赤にしたまま、用もないのに箸立ての箸を弄くり回していた。
 心臓の音がうるさいほどに耳の奥で鳴り響いていた。気づけば、私はビールを一口あおりながら、熱くなった顔を隠すように彼の横顔を盗み見ていた。

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